バラエティ番組の出演で一躍知名度をあげたタレントのなすびさん。今も拭いきれていないトラウマや葛藤があるそうで──。テレビでは伝えられなかった本音を伺いました。(全3回中の1回)

ギャグではなかった当選の舞

── バラエティ番組、「進ぬ!電波少年」で、懸賞で当選したものだけで生活を送る企画に出演していました。番組終了後、世間のイメージとのギャップに悩んだそうですね。

 

なすびさん:こうやって取材を受けると、「なすびさんって真面目な人なんですね」って言われるんですけど、ああやって裸で踊っていたから皆さんからは相当変な人と思われているみたいで。

 

「当選の舞やってください!」と言われることもありますけど、あれは本当の喜びから出てきたもので、今やれと言われてもできるものではないんです。バラエティ番組だったので、一部が切り取られて編集されると、楽しそうにやっているように見えていたかと思います。

 

なすびさん
エベレスト登山に挑む真剣な表情のなすびさん

── ご本人としては楽しんではいなかったと。

 

なすびさん:テレビに映っているのは僕本人ですが、人を笑わせようと思ってしていたわけじゃないんです。とにかく生きることに必死。「当選の舞、面白かったですね」と言われましたけど、僕はギャグとしてやっていたわけじゃなくて。人間って、本当に嬉しいことや楽しいことがあったときには体が動いて踊るんです。

 

原始の世界で、収穫の喜びを踊って表現したというのが壁画などに残っていると思いますが、まさにそれで。今の時代、嬉しいことがあって踊っていたらきっと「大丈夫?」と言われてしまうと思いますが、元々人のDNAに組み込まれていたのを僕が表現してしまっていて、それを皆さんが目撃していたんだと思います。

 

── いまだに引きずっていることもあるそうですね。

 

なすびさん:僕の中ではまだトラウマがあって。あの1年3か月間、ひたすら応募ハガキを書き続ける単純作業をしていたのですが、誰とも会わずに極限の生活をしていたら人への恐怖心が生まれて、人を信じられなくなりました。

 

僕の伝え方が下手だったのかもしれませんが、懸賞生活を送っていた当時、自分の様子が実際にどのように放送されているかまったく知りませんでした。あとから、必死で生きていた僕のツラさを笑って見ていた方がいると思うと、怖さを感じて人間不信になりました。

 

なすびさん
東北の被災地の沿岸部を歩くなすびさん

きっと孤独な部分は伝わっていなかったですし、バラエティなので番組側も伝えようと思っていなかったと思います。本当にあの生活をしていたとは思っていなかった方も多かったようです。「撮影が終わったら、家に帰ってご飯を食べていたんでしょ」と言われることも多くて。

 

でも本当に、誰とも接触せずあのままの生活を送っていました。自分も楽しんで、人を楽しませようと思って芸能界を目指したのですが、真逆の立場に置かれてしまったように思いました。

 

── 芸能界を目指したきっかけはなんでしたか。

 

なすびさん:父親が警察官で転勤族でした。小学校も3回変わって。顔が長いといじめられて、友達がいない時期がありました。転校するたびに変な転校生が来たと後ろ指を刺されて、いじめの対象になるというのを繰り返していたので、「なんで僕だけ」と思っていました。

 

当時、ドリフターズが全盛期だったのですが、「8時だョ!全員集合」の志村さんのギャグを学校でやってみたら何か変わるかなと思ってやってみたら、「こいつ面白いやつだ」と周りが笑ってくれて。そこから少しずついじめが減って、友達が増えていきました。人を楽しませたり笑わせたりすることって自分も周りも幸せになるなと思ったのがエンターテイメントを目指すきっかけでした。

 

── 懸賞生活は達成して終えられましたが、逆境を乗り越えるというのは小さい頃から通じるものがあると感じました。

 

なすびさん:懸賞生活ほどの孤独ではないですが、子どもの頃に感じた孤独の経験はもしかしたら自分の原点になっているのではと思うことがあります。発想の転換ではないですが、逆境に打ち勝っていくことを昔からしていたのかなと。人は乗り越えられる試練しか与えられないとはよく言いますけど、僕はだいぶ見込まれていて、ずいぶんハードルの高いものを課せられているなと思う人生ですね(笑)。

 

なすびさん
富士山をバックに なすびさんと富士山の縁起が良さそうな写真

── 懸賞生活はいつでも逃げ出すこともできたそうですが、それでも続けた理由はなんですか。

 

なすびさん:あとからスタッフさんに聞いたら、面白くなかったら企画を変えるとか、ツラくて逃げ出してしまうことも想定はしていたようなんですが、たまたま僕が続けてできたことで、ひとつの前例を作ってしまったようでした。でもその後の企画を見ても、1年以上ひとりで部屋に閉じ込められていたのは僕しかいなかったですね。

 

自分が決めたことだから最後までやり抜こうと。大和魂じゃないですけど、東北ならではの頑固さで自分を奮い立たせていました。とにかく生き抜くことに必死でした。その辛さを訴える場所もなく、何かを伝えるための手段は日記を書くことだけでした。

25年経った今も続く葛藤

── 懸賞生活後はどのような生活を送られたんですか。

 

なすびさん:リハビリじゃないですが、失われた1年3か月を取り戻すための生活をしていました。人とまったく話していないので人と話すのが恐かったですし、ずっと服を着ていなかったので、服を着ると大量に汗をかいてしまって。とにかく日常を取り戻すことで必死でした。

 

いまだに「服を着てるの初めて見ました」とか「今日は服着てるんですね」と言われますし、まだまだ重い十字架を背負っているなという意識はあります。

 

その後は世の中が求めていることと自分がしたいことのギャップに悩みました。皆さんはやはり懸賞生活のなすびを求めているので、本当に芸能の世界で人を笑わせることができるのかという葛藤はずっとありますね。劇団や俳優業もさせてもらっていますが、うまく自分を表現しきれていないように思いますし、世の中の人が求めているものとの差にいまだに悩んでいます。

 

昔は世の中のイメージに押しつぶされそうになって、芸能界で結果を残すのは無理なんじゃないかと思っていたときもあったんですけど、「一度きりの人生なんだから、好きなことをしないと」と思うようになってからはプレッシャーを感じることは少なくなりました。時が経つと変わることもあるものですね。でも、25年経っても引きずっているじゃないですけど、まだ懸賞生活以上のものを自分の中では生み出せていないと思っています。

 

PROFILE なすびさん

なすびさん

俳優・タレント。「進ぬ!電波少年」の「電波少年的懸賞生活」にて、懸賞のみで生活しブレイク。その後、元々志していた喜劇俳優を目指し俳優としての活動本格化。福島や東北への復興応援や自然環境保護活動、コロナ災禍の地元産業応援や未来に残す啓蒙活動を模索し続ける。半生を追ったドキュメンタリー作品「The Contestant」がトロント国際映画祭を皮切りに、世界公開。

 

取材・文/内橋明日香 写真提供/なすび