小学生で身長が180センチを超え、高校時代は3冠獲得。社会人になってからもバラ色のバレーボール人生が続くはずが、「挫折の連続だった」と荒木絵里香さんは振り返ります(全4回中の2回)。

 

現役時代の躍動するジャンプ!強力なスパイクを見せる荒木さん

10代からオリンピックに出た仲間の活躍に焦りが…

—— 日本のバレー界をけん引し、東京オリンピックを機に現役を引退されました。あらためて自身のアスリート人生を振り返って、どんなふうに感じますか?

 

荒木さん:引退会見でもお伝えしたのですが、「バレーボールを味わい尽くさせてもらった」という気持ちがすごく大きいですね。競技者として人生のほとんどを費やしてきて、世界中を回ったり、海外でも生活し、子どもを産んで復帰したり。多くのことを学べた競技人生だったと思っています。

 

—— バレーボールを通じて、いくつもの夢を叶えてこられたのですね。

 

荒木さん:私は「知りたい」「見たい」という好奇心が人一倍強いタイプなんです。そんな私がいろんな夢を叶えることができたのは、バレーに出会い、周りの助けを借りながら、競技を続けてこられたおかげです。

 

—— 荒木さんといえば、中学生のころから将来を有望視され、成徳学園(現・下北沢成徳)では高校3冠を達成して、その後、選手として4度のオリンピックも経験。長い競技人生のなかでは、苦労や葛藤も経験されてきたと思いますが、挫折感を味わったこともあったのでしょうか?

 

荒木さん:もちろんあります。むしろずっと劣等感だらけでしたね。私は決してバレーボールがうまいわけでも、センスがあるわけでもありません。不器用で鈍くさいですし、何をやるにも時間がかかるタイプです。みんなが当たり前にできることができなかったり、珍プレーも多くて。バレー界の方なら、きっとご存じだと思います。

 

でも、だからこそ「もっとうまくなりたい」気持ちを持ち続けてこられたし、「まだうまくなれる」感覚もあったことが、長く競技を続ける原動力になりました。

 

——「できない自分」がいたからこそ、伸びしろを信じてやってこられたと。

 

荒木さん:もちろん悔しい思いもいっぱい経験してきました。大山加奈や栗原恵といった同級生たちが、10代からオリンピックで活躍するのを見て、「私もそこに一緒に立ちたかった」思いを抱いていましたし、2004年のアテネオリンピックでは代表候補に選ばれたものの最終選考で落ちて、自分だけオリンピックに行けず、すごく悔しかった。

 

でも、そうした思いが「絶対オリンピックに行く!」という強いエネルギーになりました。小学校のころから身長は180センチを超え、体格に恵まれてはいたものの、技術が伴わず、周りの期待に応えられない自分をもどかしく感じ、苦しかった時期も。それでもやっぱりバレーが大好きで、もっとうまくなりたい一心で、頑張り続けてこられたのだと思います。

スランプのときに恩師からかけられた「意外な言葉」

—— 苦しい時期に、自分を奮い立たせたり、支えになったものはありましたか? 

 

荒木さん:いまでも忘れられない出来事があります。21歳のころ、アテネオリンピックに行けなかった私は、次に向けて練習に打ち込んでいました。ところが、調子が上がらず、スランプに。気持ちが後ろ向きになり「環境を変えたい、逃げたい」と思ったことも。そんなとき、高校時代の恩師に会いに行って思いを打ち明けたところ、返ってきたのは意外な言葉でした。

 

「みんな期待しているから頑張れ」とか「我慢して踏ん張れ」と、はっぱをかけられるかなと思ったんですが、恩師は、「バレーボールで一番大事にしたい価値は何なのか、考えてみなさい」と言われました。それが、すごく腑に落ちて。当時の私は、「オリンピックに出たい」「日本代表として活躍したい」思いにとらわれていて、大事なものが抜け落ちていたんです。

 

—— 大事なものというのは?

 

荒木さん:本来、うまくなるために練習をして、その先にオリンピックがあるはずなのに、いつのまにか日本代表になることが目的になっていたんです。何のためにバレーをするのか、一番大切にしたい価値は何かを問い直した結果、わき上がってきたのは、「もっとうまくなりたい」という思いでした。恩師の言葉でそれに気づくことができて、原点に立ち返れました。

 

—— 気持ちを見透かすような言葉だったのですね。

 

荒木さん:まさにそうでしたね。競技にはいろんな外的要因があって、たまたまそのチームの監督に評価されなかったり、怪我をすることさえあります。そうしたときにも、「バレーがうまくなりたい」という自分の軸さえ持ち続けていれば、ブレずに立っていられる。素晴らしい恩師や仲間に恵まれ、ここまでくることができたんだと実感しています。

ミスしたら「ごめん!」外国では通じない

—— 2008年には海外のチームでプレーされています。日本と海外では、どういった点に違いを感じましたか?

 

荒木さん:イタリア(セリエA)のベルガモで8か月プレーしたのですが、海外のチームは1年ごとのプロ契約なので、勝負に対しても自分の評価に対しても、しっかり向き合っていて結果に対するこだわりが強い。すごくシビアだと感じました。

 

—— どういった場面でそれを実感されたのでしょう?

 

荒木さん:日本だと自分がミスをしたり、約束ごとを守れなかったとき、「あ、ごめん!」と謝るのが口グセになっていることが多かったです。

 

でも、イタリアで同じことをしたら、「いや、謝らなくていいから、ちゃんとやって」とチームメイトから言われ、「たしかにその通りだな」と。謝ることより、「できなかったら次どうするか」を明確に伝えて、行動で示すほうが大事。そうした感覚は、その後の競技人生に役立ちました。

 

イタリアではいろんな刺激をうけましたが、一番驚いたのは、生き方がすごく自由な点。トップチームの選手でありながら、バレーだけではなく、プライベートも重視して、いろんな顔を持っていました。大学に通う人もいれば、起業してビジネスをしていたり、モデルとして活動していたり。同性のカップルもいて、生き方が多種多様。バレー選手としても競技に全力で集中する。メリハリのつけ方が、すごく上手いんですね。

 

イタリアの強豪・パレルモ在籍時代のチームメイトと(C)Michi ISHIJIMA

荒木さん:人生を謳歌するアグレッシブな姿に、「アスリートもこういう生き方があるんだな、もっと自由でいいんだ」と刺激を受け、「アスリートはこうあるべき」という固定概念がなくなりました。バレーボールは、自分の人生を豊かに生きるためのものだと気づかされましたね。

 

── ちなみに今日のファッション、とても素敵ですね。スタイリッシュなパンツスタイルが長身に映えてカッコいいです!選手時代のユニフォーム姿のイメージが強いせいか、洋服姿は新鮮な感じです(笑)。

 

荒木さん:ホントですか!?ありがとうございます。もともとオシャレにはすごくうとくて、選手時代にはメンバーから「服装がダサい!」ってイジられていたくらい(笑)。今日のアクセサリーも、そんな私を心配した知人が「これ、つけていきな」と選んでくれたものなんですよ。

 

同級生でチームメイトだった栗原恵や大山加奈とか、私の周りのバレー選手はすごくオシャレ。彼女たちとは、いまでも仲が良くてよく連絡を取り合っているのですが、ファッションのアドバイスをもらうことも多いですね。

 

PROFILE  荒木絵里香さん

1983年生まれ、岡山県出身。高校卒業後の2003年に東レアローズに入団。東レに在籍中にイタリアベルガモに移籍。2012年のロンドンオリンピックの代表メンバーとして銅メダルを獲得。2013年に結婚し、翌年出産。半年後に上尾(現・埼玉上尾)で現役復帰。その後トヨタ車体に移籍。2021年の東京オリンピックを最後に現役引退。2022年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科入学、23年修了。現在、トヨタ車体クインシーズのチームコーディネイター、日本オリンピック委員会理事、ママアスリートネットワーク理事など多方面で活躍中。など多方面で活躍中。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/荒木絵里香