「母乳で育てかった」と語るのは北陽・虹川美穂子さん。しかし、母乳にこだわるあまり、負のループ陥ってしまったと語ります。(全5回中の2回)
母乳すらまともにあげられない自分を責めた
── 2014年、40歳のときに第一子を妊娠されました。
虻川さん:『はねるのトびら』が終わって、多忙だった日々から少し気持ちに余裕ができたのか、番組が終わって少ししてから子どもを授かりました。
── その後、2015年に第一子を出産されましたが、出産後が大変だったそうですね。
虻川さん:出産自体は帝王切開だったので問題なかったんです。ただ、私が喘息持ちだったため、出産後に飲む痛み止め薬が弱いものしか飲めなくて、かなりお腹が痛かったですね。
また、出産後は母子同室の病院だったので、子どものお世話も大変でした。子どもが泣いたら母乳をあげなきゃいけない。でも、傷が痛いから起き上がるのもつらい。母乳をあげるのもめちゃくちゃ痛い。もう痛みしかなかったですね。
── 慣れないとつらいですよね。母乳のほかにミルクなどはたしましたか?
虻川さん:助産師さんのアドバイスに従い、ちょっとたしていました。ただ、出産した病院では、妊娠中から母乳育児の素晴らしさを勉強していたこともあって、自分でも母乳へのこだわりはかなり強かったんです。ミルクをあげることに罪悪感すらあったし。でも、母乳を出したいけどなかなか出ないし、搾乳にも時間がかかるし。
── なかなか休む時間がなさそうです。
虻川さん:休めてなかったですね。途中で、助産師さんが部屋まで様子を見に来てくれて、「ちょっと休みましょうか」とアロマを焚いてくれたり、「ミルクをたしてもいいんじゃないですか?」って声もかけてくれたんです。でも、母乳へのこだわりが強くて、頑なに断っていました。と言いつつ、子どもはおなかがすいて泣き続けるので、結局はミルクをたすことになるんですけど。
今でも覚えているのは、ミルクをあげた後の出来事。帝王切開でおなかの痛みも残るし、母乳と搾乳の疲れでフラフラしながら病院の流し台に行って哺乳瓶を洗っていたら、私の横を肌つやがいい若いママたちがスタスタ歩いていたんです。これは何の差?年齢ですか?みたいな。みんな血色のいい顔をしているのに、私だけ疲れきった感じになっていて。あのママたちなら母乳もしっかり出ているだろうなって、さらに自分で自分を追い込んでいました。
写真を撮る余裕すらなかった
── 病院を退院されたあとは実家に戻られたんですか?
虻川さん:実家に戻って、親もいろいろ手伝ってくれたんですけど…。母乳をあげた時間や回数も気にしていたので、母親に「そんなに数字にばかりとらわれていたら、おかしくなるよ」と言われたほど。今思えばごもっともな意見なんですよ。でも、当時はそんな母の言葉も入ってきませんでした。
母乳をあげるときは、病院で教えられた通り、テレビを消して、赤ちゃんの目を見て母乳をあげていましたが、しんと静かな部屋に子どもと二人きり。さらに気が滅入っていきました。
── 母乳へのこだわりはいつくらいまで続きましたか?
虻川さん:生後1か月の検診くらいまでは続いていたと思います。1か月検診に行ったとき、「お子さん、ちょっと発育が悪いですね。ミルクか母乳か、栄養がたりてないんじゃないですか」って言われたんです。さすがにこれはヤバいぞ、と思いました。実は、子どもはおなかがすいたら自然と母乳を飲むだろうと思って、勝手にミルクの量を減らしていたんです。そこは先生に判断を仰いだほうが良かったし、母乳育児にこだわりすぎていた自分を反省しました。
── そこから徐々にミルクへの抵抗も減っていったのでしょうか?
虻川さん:少しずつ子どもにミルクをあげるようになりました。結果的に、子どもにちゃんと栄養が行き渡ったのか、子どもはよく寝るようになったし、私の体力も回復していきました。
また、健診日にたまたま「お昼寝アート」といって、産院で子どものかわいい成長記録写真を撮るイベントがあったんです。軽い気持ちで参加してみたら、今まで子どもの写真もあまり撮っていなかったことにも気づきました。写真を撮ったり、子どもの寝顔を見てホッとしたり。
少しずつ子どもと一緒にいる時間を楽しめるようになりました。母親になると大変なこともありますが、同じくらい喜びも味わいたいと思います。
PROFILE 虻川美穂子さん
埼玉県出身。高校の同級生だった伊藤さおりさんとお笑いコンビ「北陽」を結成。現在、1児のママとして、仕事と子育てに奮闘中。著書に『北陽の‟かあちゃん業“まっしぐら』(主婦の友社)。
取材・文/間野由利子