モデル・平子理沙さんの母で、日本にネイルアートブームをもたらした平子禧代子さん(83)。専業主婦が主流だった時代に家庭と仕事をどう両立させてきたのでしょう──。
バブルで人気になったネイルアート
── 仕事の経歴をお伺いします。まずはモデルとしてキャリアをスタートさせたと伺いました。
平子さん:結婚後、ファッションの仕事をしていた彼(夫)の叔父の木村四郎の勧めでモデルを始めて、新聞やCM、ポスター撮影などをしました。自分が写ったポスターが大きく飾られているのを眺めたときは、嬉しいような照れくさいような気持ちでしたね。
でもモデルは2年で辞めてしまったんです。子どもが好きで、早く子どもが欲しかったので。たった2年でしたけど、とても華やかで楽しい日々を過ごさせていただきました。
── お子様のご出産後は何をされましたか。
平子さん:子どもが小学生になったときに子ども服のデザインを始めました。あの時代の子ども服って垢抜けなくて、もっと可愛いのがないかなと思って始めたんです。でも当時は、自分の名刺も持っていなかったので、紙に「平子禧代子」と書いて。自分でデザインを考えて縫っていただいて、それをバッグに詰めて飛び込みで営業に行きました。
そうしたら行く先々ですべてOKとなり、デパートや有名な子ども服の店などに置いていただきました。当時、取引先の方は今と違って男性ばかりでしたね。工場に生地を納品して、商品の値札付けから、集金も全部自分でしていました。子どもたちを学校におろしたらそのまま配達に行って。
ゼロから全部自分でするビジネスが好きなんです。インターナショナルスクールの制服のデザインもさせていただいて、可愛いと好評でした。他の私立校にも制服ファッションの影響を及ぼしました。
── 1983〜1985年頃、海外のネイルアートを日本に持ち込んでブームが起きたそうですが、日本では当時どんなネイルが主流だったのでしょう。
平子さん:付け爪やネイルアートも少しはあったと思いますが、単色で塗るだけのネイルが一般的でした。アメリカではすでにネイルアートがスタートしていました。
── ネイルアートに注目した理由はなんですか?
平子さん:私は街を歩いていても常に「これを輸出してみるのはどうかな」と考えてビジネスに繋げていたんです。
アメリカのいちばん大きな美容問屋でラインストーンを見かけて「これはいける!」と思ったのがネイルアートを持ち込んだきっかけです。
「社長に会わせてください」と電話したところ、もちろん返事は「No」。でもそこで引かず、「断っていただいて結構ですが、直接、顔を見て断ってくださいませんか」と伝えました。そこから社長が会ってくださって、私の思いを伝えて。当時の女性社長と話して、契約書を作ってくださいました。
当時、バブルで日本の経済がすごくいいときで、景気がいいときは光るものが好まれるんです。アメリカもそうですが、不景気になると途端に光るものが少なくなるように思います。そこに目をつけました。
契約書とラインストーンと、数百のネイルデザインをサンプルとして持って、まず東京の大手美容問屋に飛び込みで行きました。するとすぐに、「一緒にしましょう」と。そこから大手化粧品会社の国際部門の方と一緒に輸入の手続きをして、楽しくお仕事をさせていただきましたね。
全国の美容部員を集めて技術指導をしたり、デモンストレーションのイベントをしたり。スクールの講師や講演で日本全国を回って、そこから一気にネイルアートのブームが来ました。
── 素敵なデザインばかりでワクワクしますが、平子さんにとってのネイルとはなんでしょう。
平子さん:いろいろなデザインを作ってきましたけれど、キラキラさせることだけが爪のおしゃれではなく、きちんとお手入れをすることがネイルだと思っています。お手入れがベースにあって、そこにプラスしてラインストーンやアートを加えるのもネイルの楽しみのひとつです。
「妻、母、主婦、働く女性、女」5つの使命
── そのあとは何をされたんでしょう。
平子さん:講演やテレビ出演、雑誌の取材を受けたり、アメリカのネイルの雑誌にデザインが掲載されたり。ネイルの審査員などもしましたし、ロサンゼルスでラジオ番組を毎週持っていました。最後にロスでオーガニックの食品会社を立ち上げて、今は息子が継いでいます。今の私の希望は、もうあとひとつ自分なりの思いの花を咲かせたいという願いがありますね。
それに、日本のお年を召した方にも、もっとおしゃれなものに目を向けて欲しい、そして生きる喜びを知ってほしいと思っています。お金をかけなくてもコーディネートの仕方で、自分に合ったおしゃれはできます。ヘアスタイルもそう。日本の方はみんな同じスタイルの方が多いようですね。
── 娘でモデルの平子理沙さんにも、小さい頃からおしゃれをさせていたそうですね。
平子さん:理沙には子どもの頃からイタリアから輸入したカーディガンや毛皮などを着せたり、ブランドのバッグを持たせたりしていました。自分で縫ったり編んだりした手作りのお洋服も着せていました。
でも理沙は小さい頃すごくおとなしくて。昔から毎日のようにスカウトもされていたんですが、嫌だと言って逃げていたんです。ちょうどアメリカのカレッジを卒業するタイミングで日本の芸能の仕事を始めたのですが、理沙は私から見ると今でも変わらず自然体。自分をなくさないでいますし、皆様から可愛がっていただいてありがたいです。
── インスタグラムに投稿している仲睦まじい親子ショットも素敵です。
平子さん:あるときは女と女、あるときはお友達。あるときは母と娘ですが、基本はもうお友達ですね。インテリアやファッションの好みや趣味も合います。でもね、お互いに気が強いから喧嘩もするのよ。理沙とは一緒にランチに行ったり、ショッピングに行ったりして楽しんでいます。
── 当時、子育てをしながらどうやって仕事と家庭との両立をしていたのですか。
平子さん:私は当時、自分に与えられた使命は妻、母、主婦、働く女性、女という5つがあると思っていて、それを成し遂げてこそかっこいい女(女性)だと自分なりに思っていました。ずうずうしいかもしれないけれど、これを私なりにすべてやり遂げてきたつもりです。仕事は好きでしているし、ゼロからするのが好きだった。彼には頼りたくなかったので自分で貯めた資金で仕事を始めました。
妻である。彼の胸の中に、馬鹿な女になって飛び込む。馬鹿というけれど、これは利口じゃなきゃできないことよ。
母として、ありったけの愛を子どもたちに与える。こよなく子どもたちを愛してきました。
主婦として、家族にはどんなときも手料理で迎えて、仕事で家を空けるときは夜中になってでも、睡眠時間を削ってでも料理の作り置きをしていましたし、部屋も常に綺麗にして家族が安心できる空間を作っていました。お手伝いさんにも協力してもらっていましたが、働くことで家族に悲しい思いをさせたくなかったの。
でも、働く女性としていざ仕事のときは、凛々しく一生懸命気持ちを込めて取り組みます。まずは心と心が通じ合ってからと思っていました。そして、私がこの5つのなかでいちばん好きな、女であること。素敵におしゃれをすることかな。
今はもう子どもたちも巣立って彼も8年前に亡くなったので、このなかでは女であることしか残っていないのですが、今の状況でできることをしたいなと思っています。この先、どんな場所にいても心のあり方や生き方はずっとかっこよくいたいし、キラキラ輝いて残された人生を過ごしたいと思っています。
PROFILE 平子禧代子さん
米・ロサンゼルス在住。モデル、ファッションデザイナーとして活動したあと、海外のネイルアートを日本にネイルアートを広め、技術指導や講演を行う。ロスにてオーガニックの食品会社を設立。国内外でテレビ、雑誌、ラジオの出演経歴を持つ。
取材・文/内橋明日香 写真提供/平子禧代子