好きだからガムシャラになれる。そんな努力が、遠い記憶のかなたに消えた人もいるかもしれません。野球という分厚い男社会で、必死で練習にくらいつき、頭を使ってプレーを続けた片岡安祐美さん。いまも心に宿る野球への情熱。青春の日々を、思い出したくなりました。(全4回中の1回)
校長と話し合って野球部への入部が決まる
── 片岡さんといえば、実力を兼ね備えた笑顔まぶしい野球少女のイメージ。現在は、男の子のママとなり、社会人野球・茨城ゴールデンゴールズの監督も13年間勤めておられます。野球をはじめたきっかけは何ですか?
片岡さん:テレビで観た甲子園に憧れて、小3から野球をはじめました。小4からは学校の部活にも所属したのですが、女子が一人もいなかったので、校長先生や教育委員会の意向を確かめてからの受け入れでした。
結果、チームにお兄さんがいる女の子と2人で入部。野球にのめりこんで、部活のない日も父と素振りや走り込みの自主練をしました。1年間はベンチでスコアをつけたりしていました。
練習試合に代打で初出場させてもらい、それがライト前ヒットに。レギュラーになってからはチーム内でも4番を任されたり、ホームランも打てる選手になりました。
── 片岡さんは、“よく打つ野球少女”として有名だったそうですね。中学でも野球を続けられましたが、男子との体力・体格差が開く時期をどう乗りこえられましたか。
片岡さん:中学では軟式野球部に入部しました。中学の外部コーチが「うちで野球をしたい女の子がいるらしい」と小学生の私の試合を見に来てくれたので、女子は前例がありませんでしたが、すんなり入部できました。
でも体力差は一気に開きましたねぇ。私より背が低かった男子に身長を抜かれ、彼らがさく越えのホームランを連発。いままでは私がいちばん打って、走るのも3本指に入っていたのに。
夜9時にコーチの自宅へ押しかけて指導をお願い
── 悔しいですね。これでは勝てない、やめようとは思わなかったのですか?
片岡さん:やめようとはまったく思いませんでした。けれど、このままでは男子と勝負にならないので、自分はどうしたら選手として生き残れるかを徹底的に考えました。
小学校まで見に来てくれた外部コーチの教えを受け、「ホームランだけを狙わない」「頭を使う」「バントなど監督の指示を100%できる選手になる」と、考え方を変えました。
「チームを支える役割はいろいろある」「各自が適材適所で貢献できる形がある」、これらの気づきは、現在の監督業にも活かされています。
コーチは厳しい人で、すっごく怒られましたが、私もくらいついていきました。
夜9時ころ、自宅での素振りがどうしても納得いかなくて、コーチに電話して自宅まで押しかけてフォームを見てもらったり。「夜中にバット持って家まできたのはお前が初めてだ」って(笑)。
── 野球部の男子たちの反応は?
片岡さん:みんな小学校から顔見知りの野球仲間なのですが、中2くらいから急に避けられるようになって…。
思春期特有の恥ずかしさや自意識が芽生えたのを私が気づかなくて、変わらずワイワイ接していたからウザがられたのかな。
キャッチボールの相手がいなくなり、ひとりでお弁当を食べていました。
── それはキツイですね…。そして甲子園を目指して、高校は名門・熊本商業高校へ。でも当時、女子は甲子園に出られませんでしたね。
片岡さん:甲子園を目指して野球を続けていましたが、ある日、父から「女子は甲子園に出られないんだよ」と聞かされました。
そんな会話の後、中3の夏に甲子園に連れて行ってもらい、すごく感動したんです。
中学でも宣言どおりレギュラーをとって、中3でテストを受けて女子野球日本代表になり世界にも行った。今度は、生で見た甲子園でプレーする高校球児に私もなりたい。でも現実は…。
じゃあ一緒に練習するメンバーが甲子園に行ったら、私も甲子園に出場したと思うことにしよう。
そのころには高野連の規定も変わるかもしれない。だから、私は甲子園を目指して高校でも野球を続ける。そう決めて、父に進学先を探してもらいました。
「安祐美がここまでやるなら」部員の心に火がつく
── 熊本商業高校でも野球部への女子受け入れは前例がなく、監督も最初は迷われたとか。
片岡さん:あとから聞いた話ですが、ずいぶん迷って教員である奥様に相談されたそうです。「受け入れたらいいじゃない、あなたの教員、そして指導者としてのレベルアップにもなるのだから」という奥様の言葉で決意した、と。
── 重要なときに、片岡さんの前例なき道を応援してくれる方が現れるものですね。
片岡さん:本当にそのとおりです。萩本欽一さんをはじめ、あと押ししてくださる方との出会いがなければ、どうなっていたか。
── 高校では、ますます男子との体力差が顕著になりますが、練習は一緒に?
片岡さん:はい、まったく同じメニューをこなしました。
当時は夜10時くらいまで練習をすることがあったのですが、一度「女の子だから」と私だけ先に帰らされたことがあって…。それが悔しくて仕方なかった。
夜、監督から父に「帰宅しましたか?」と確認の電話があったので、父の前に立って「私がものすごく怒ってる、って伝えて。特別扱いはいっさいしてほしくない」と言い、父がそのとおり監督に伝えました。
監督は「わかった。身の安全については注意するけど、練習は男子と同じだ」って。
── 監督が心配する気持ちもわかります。でも監督とお父様は片岡さんの覚悟を尊重してくださったんですね。ところで男子部員たちの反応は?
片岡さん:部員ほとんどが中学時代からの野球のライバルたち。やっぱりここでもキャッチボールの相手はいなくて、指導係の先輩が相手をしてくれました。
でも、すべて同じ練習メニューをこなすことで、だんだん仲間として認めてもらえるようになったんです。
めちゃくちゃしんどい12km走をみんなが折り返してくるなか、私が後から追いかけていると、すれちがいざまに「がんばれっ」って声をかけてくれる部員が1人、2人と増えていきました。
ヘロヘロになってゴールしたら「おつかれっ!」とみんなが迎えてくれるまでに。
「安祐美がここまでやるなら、俺たちもやらないと」ってみんなでがんばり、チームとしてのレベル底上げにつながった気がします。
同学年の部員26名のうち、3年間通してやめたのは1名だけ。これは他の学年と比べるととても少なくて、団結力も高まったんじゃないかな。
── 片岡さんのがんばりがチーム全体に刺激を与えたんですね!野球部以外の生徒の反応は?
片岡さん:高校では女子生徒が3分の2を占めていました。残り3分の1の男子が野球やサッカーの体育会系。
まったく知らない女子の先輩たちが、「安祐美ちゃーん、熊商のアイドル!がんばれっ!」って校舎の窓から声をかけられたり。
高1のときは高野連に“片岡を甲子園に出してください”って嘆願書を送ってくれたことも。
小学校のときは、女の子から「野球をやっているからって、私の好きな男子と仲良くするのはやめて」とか、いろいろ言われたりもしました。
中学では男子のチームメンバーに避けられたりしましたが、高校ではそんなことはなく、女子野球世界選手権の日本代表に3年連続で選ばれたのですが、チームとしては甲子園に行けませんでした。
卒業しても野球を続けたい、どうしようと考えていたら、社会人野球の茨城ゴールデンゴールズから連絡をもらい、萩本欽一さんが道を拓いてくれたんです。
PROFILE 片岡安祐美さん
1986年、熊本県生まれ。熊本商業高校硬式野球部に入部。高校時代に女子野球世界選手権日本代表に3年連続で選出。社会人野球クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」に入団、2010年に監督就任。2014年に全日本クラブ野球選手権優勝。2017年に元プロ野球選手の小林公太さんと結婚、2022年長男を出産。
取材・文/岡本聡子 写真提供/片岡安祐美、株式会社佐藤企画