コミカルなイラストで日常のおもしろネタを描いたブログで一躍有名になったカータンさん。乳がんを発症し、闘病生活を送っていた姉を昨年、亡くしました。両親の介護に姉妹で協力して取り組み、姉のことを「戦友」だと話すカータンさんですが、姉の病気のことをブログでは明かして来ませんでした。その理由や現在の心境について伺いました。

父と姉のふたりを失った激動の1年

── 緑内障が悪化して視力を失い、特別養護老人ホームで生活されていたお父さんが昨年8月に亡くなり、その後、闘病中だったお姉さんが11月に亡くなったと伺いました。本当に大変な日々を過ごされていたと思います。

 

カータンさん:「人にはこれだけの試練が降りかかるのか」と思いました。姉の余命が年内だと言われたのが去年の3月末。そこから私の頭のほとんどを姉のことが占めていました。

 

カータンさんのイラスト
カータンさんが描いた、お父さん譲りだという「たらこ唇」がそっくりのカータンさん姉妹のイラスト

吐き出したいことは姉のことばかりだったのですが、姉はごく少数の友人以外には病気のことを言っていなかったんです。私が先にブログで描くこともできず、毎日「何を描けばいいの」と思っていました。

 

── そんな状況とは知らず…。いつものようにおもしろいネタで、ブログの更新も続けられていました。

 

カータンさん:ブログの更新を止めてしまうと姉が心配するので、心のわずかなスペースを使って日常で見つけたおもしろいことを描いていました。毎日苦しいなかで、生み出し続ける時期がいちばん辛かったように思います。

 

姉は私がブログを更新すると真っ先にチェックしてくれていました。読者さんはもちろんですが、闘病中の姉のために描き続けていたのも大きいです。姉は私の仕事も手伝ってくれていて、イラストの色つけや雑務、それに私が打たれ弱いのもあってコメントなども私より先に目を通してくれていました。姉を失ってすべてひとりでするようになって、急に寂しさが増すことがあります。

 

── お姉さんは乳がんを患っていたそうですね。

 

カータンさん:姉は4年前に乳がんになり、全摘手術をしました。おととしの春で再発もなく丸3年無事でしたし、乳がんは助からないがんではないとも聞くので前向きに過ごしていました。

 

ところがおととしの夏頃から、ランニングをしていたときに足を引きずるようになって。「なんだかおかしいな」と思っていると、今度は目の焦点が合わなくなりました。その後のMRI検査で、脳にがんが転移して腫瘍ができていることがわかったんです。

 

腫瘍の箇所には神経がたくさん集まっているので手術で取ることができなくて。腫瘍の周りに溜まっていた水を取り、放射線治療もして腫瘍も小さくなりました。そこからリハビリを頑張って歩けるようにもなったんです。

 

でもだんだんまた足が動かなくなってきて、「髄膜播種(ずいまくはしゅ)」という診断を受けました。髄膜を通って、がんが体のいろいろな場所に散っていく病気です。

 

── そのあと余命宣告を受けたんですね。

 

カータンさん:はい。まさかそんなことになるとは誰も思っていませんでした。

 

その日、姉が定期検診に行くというのは聞いていて、病院が終わってから「今、家にいる?」と連絡が来ました。「薬局にいるからそのあと寄って良いかな?」と。姉がいつも行く薬局はうちからすごく近いので、3分くらいで来るかなと待っていたら全然来なくて。

 

30分くらい経ってさすがに心配になり、外に出ようと玄関のドアを開けたら姉が泣いて立っていました。「余命、年内って言われた…」って。

 

もう、そこから毎日苦しくて。ブログの更新があくこともあったのでコメントでも心配されることがありましたが、実は姉の闘病生活と親の介護の日々でいっぱいいっぱいでした。

両親の介護の“戦友”だった姉

── 著書にも描かれていますが、お姉さんとはご両親の介護をいっしょにされていたんですよね。

 

カータンさん:親の介護が始まってから姉は戦友のようでした。姉が元気なうちは親の介護の手続きも全部してくれていて。父の介護保険の申請や、デイサービスや特別養護老人ホームに入るための書類の準備や申請などもすべてしてくれていました。

 

もともと、ホームからの緊急連絡先の第1番目が姉でした。闘病中の姉に連絡が行くと大変だと思って、私が1番目になるように変更の手続きに行ったのですが、書類が想像以上にたくさんあって。「これを今まで全部姉がしてくれていたんだ」とそこで気づいて、申し訳ない気持ちになりました。

 

── カータンさんにとってお姉さんはどんな存在でしたか。

 

カータンさん:しっかり者で、小さいころから姉のうしろをついていけば大丈夫だと思っていました。私が甘えていた部分が大きかったです。

 

うちの家族は父の仕事の関係で台湾に住んでいたのですが、私が高校生、姉が大学生のときに日本に戻って姉妹ふたりで住んでいました。ほかの姉妹には負けないくらいの絆があると思っていましたし、私にとっては親のような存在でもありました。

 

長女の責任感で、しっかりしなきゃと思っていたからだと思うのですが、正直、姉の方が親より怖いときもありましたよ(笑)。私もことごとく守らないのですが、門限や生活態度なども姉がしっかり目を光らせてくれていました。

 

カータンさんのイラスト
姉妹ふたりで住んでいた頃、それぞれ半分ずつ買ってきたスイカを合わせてみたらピッタリだったエピソード「姉妹の不思議 スイカ事件」より

── お姉さんはずっとご自身のことよりご家族の心配をされていたそうですね。

 

カータンさん:姉は「何もできないけど私も実家に一緒に行きたい」と言うんです。

 

認知症の母が住んでいる実家にはヘルパーさんなどが来てくれているのですが、私も週に2〜3回行っています。入浴介助を私がしているのですが、姉はきっと親の介護をさせているのが申し訳ないと思っていたのかなと。

 

父が去年の夏に亡くなって。すごく悲しかったけれど、父の死に対しては、「よくここまで頑張った」という気持ちもありました。それに、すでに姉の余命宣告も受けていたので、父が先に待ってくれていると思うようにしていました。

 

── お姉さんの闘病生活を振り返って思うことはなんですか。

 

カータンさん:姉はずっと生きる希望を捨てていなくて、「私は絶対に治る」と言っていました。なので、万が一のことがあったらどうしてほしいとか、本人に死に対する希望を何も聞けなかったんです。

 

姉とはいつかふたりで旅行したいねと言っていました。お医者さんから言われた感じでは、「今しかない」というタイミングがあったので、旅行先や宿を探して姉に提案したんです。

 

でも味覚障害があったのと飲み込みが上手くできなくなっていたので、「もう少し美味しいものが味わえて、歩き回れるまで待って」と。姉がそう言ったので、きっとそれでよかったのかも知れません。私だけの後悔なんだと思うようにしているのですが、もっと早く叶えてあげれば良かった。

 

── お姉さんの気持ちも、カータンさんの気持ちも伝わってきます。

 

カータンさん:本当は生きているうちに、「私たちの絆は離れていても繋がっているよ」とか、そういうことも姉妹で言い合いたかったんですが、なんだか急に置いてきぼりのような気持ちでいます。

 

私は、もし余命宣告を受けたら娘には毎日わがままを100個くらい言い続けようと思うんです(笑)。娘から「ママいつまでいるんだろ…」って思われるくらいの方が、早く前を向けるのよって。

 

今の私はすごく生き急いでるんです。健康年齢を考えると、もうあと20回くらいしか夏がない!って。これ食べたい、あれしたいと言い続けてそれを叶えてあげることで、もしかしたら残された方の気持ちが楽になるのかなって。

 

今、元気な方にも言えることですが、いつなんどき、何があるかわかりません。「いつか」ではなく、何事もできる時にしようと思うようになりました。

 

PROFILE カータンさん

カータンさん

1967年生まれ、元客室乗務員。2007年よりスタートした、コミカルなイラストで日常を赤裸々に綴ったブログ『あたし・主婦の頭の中』が人気を集める。家族は夫と2人の娘。著書に『健康以下、介護未満 親のトリセツ』、新刊『お母さんは認知症、お父さんは老人ホーム 介護ど真ん中!親のトリセツ』(KADOKAWA刊)が発売中。

 

取材・文/内橋明日香 イラスト・写真提供/カータン