「子どもたちをお願い」。東日本大震災で多くの犠牲を払った宮城県石巻市からのSOS。神奈川でイベント企画会社を経営していた志村知穂さんは、震災後、石巻市に移住し、親を亡くした子や子を亡くした母親の「こころのケア」を続けてきました。「なぜそこまで?」と何度も聞かれるという志村さんがケアに力を振り絞るのには理由がありました。

 

一般社団法人こころスマイルプロジェクトの志村知穂さん(右)
一般社団法人こころスマイルプロジェクトの志村知穂さん(右)

「子どもたちを頼む」小学校教員の親戚からのSOS

もともと神奈川でイベントや町おこしなどの企画会社を経営していた志村さん。輸入雑貨などの仕入れでは海外と日本を行き来していました。石巻市で活動をするきっかけとなったのは、地震が起きた2011年3月11日から約3週間後、ようやく連絡が取れた石巻市の親戚からのひと言でした。

 

「大人は我慢できるからいい。私たちよりも、子どもたちを頼みたい」

 

その親戚は、石巻市内の小学校で教師をしていました。志村さんは、すぐに「何が必要か」を探り、ボランティア活動を開始。被害が大きかった沿岸部の小学校に対し、4月の学校再開に向けて必要なランドセルやぞうきん、スクールバッグを手配、また上履きを千足単位で配布し、野菜をふんだんに使った温かな給食を多いときで約3000食、各学校に配給していきました。

 

震災直後、中瀬にある石ノ森萬画館周辺の街の風景
震災直後、中瀬にある石ノ森萬画館周辺の街の風景

話せなくなった子どもが声を出せるように

志村さんが中心になって現地の団体たちと支援を続けていくと、行政の支援が届かない地域があることがわかってきました。志村さんは神奈川と石巻を行き来しながら、支援を継続。そのなかで、志村さんに電話で相談を受けていた女子がPTSDで声が出なくなるという緊急事態が起こります。

 

「後日、石巻で初めてその女性に会って、ハグをしました。そうしたら、翌日、声が出るようになったんです。ホッとしてくれたのでしょうか。まわりの人も驚いていました。嬉しかったですね」

 

震災直後、被災した小学校の様子
震災直後、被災した小学校の様子

4月に学校が再開してしばらく経つと、今度は、震災によるPTSDで学校に行けなくなった子どもがいることを知ります。

 

「もともと母子家庭で、お母さんとお姉さんを津波で亡くして登校できなくなった子など、家族を亡くしながらまだ支援につながっていない子どもたちの存在がわかってきたんです」