CMやドラマに引っ張りだこで多忙を極めた20代に、お菓子作りを学ぶため、3か月間の海外留学を実現した水野さん。帰国後は調理免許も取得するなど、その人生はチャレンジ精神と学びで溢れています。しかし、「当時は自分を見失わないために必死だった」とも。その心境を伺いました(全5回中の3回)。

このままだと幸せなおばあちゃんになれない

── 初代「きれいなおねえさん」として松下電器(現パナソニック電工)のCMで人気を博し、幅広く活躍されてきました。振り返って、どんな20代でしたか?

 

水野さん:高校生のときに「東宝シンデレラ」オーディションで審査員特別賞を受賞し、短大時代までは学業優先で事務所のレッスンを受けていました。卒業後に、NHKの朝ドラでデビューさせていただき、その後は、CMやドラマと大きな仕事が続いたいい時期でしたね。

 

高校時代の水野真紀さん
とってもチャーミングな高校時代の水野さん

── 仕事が多忙を極めるなか、28歳のときに、お菓子作りを学びにイギリスに短期留学。帰国後は日本料理の専門学校に通い、調理免許も取得されています。これらは、すべて自分で決めたことだったそうですね。どういった心境の変化があったのでしょう?

 

水野さん:今思えば、「自分を見失わないための行動」だったように思います。

 

── どういうことでしょう?


水野さん:当時、あまりの忙しさに心が疲弊し、自分自身を見失いかけていました。

 

当時の芸能界は、働き方もスケジュールの入れ方もかなりハード。そんな生活を5年くらい続けるうちに、どんどん心がすり減っていくのを感じ、一時は心療内科の門も叩きましたが、いっこうに気持ちが晴れなくて…。

 

とはいえ、仕事場でそんな姿を見せてしまうと、周囲の皆さんを心配させてしまう。それだけは避けなければと、自分にプレッシャーをかけて元気に振る舞っていたのですが、あるときふと、「私、このままで幸せなおばあちゃんになれるのかな…」と思ったんです。

 

── 20代で「幸せなおばあちゃん」をイメージするのは少し早いようにも思いますが…。

 

水野さん:祖父母の影響ですね。祖父は求められて会社員生活を続け、休日は絵を描いたりと充実した日々を過ごし、祖母もいつも笑顔で元気。そして、きちんと家事をして楽しそう。「こんな老後を迎えたいな」と憧れていたんです。

 

── 水野さんにとって、幸せのロールモデルだったのですね。

 

水野さん:もともと27歳までに俳優として世間に認められていなかったら、お見合い結婚をして、芸能界を引退しようと思っていました。要するに、「夢の締め切り」ですよね。

 

ただ、描いていた夢には届きそうだけれど、幸せなおばあちゃんになれるイメージがわかなかった。「この環境からいったん抜け出したい」というのが、正直な心境でした。