衆議院議員を5年間務め、現在はコメンテーターなどとして活躍する金子恵美さん。1児の母であり、同じく元議員の宮崎謙介さんとおしどり夫婦としても知られています。「あまり外に出ることが得意ではなかった」という金子さんは、どのような思いをもって政治の世界に入ったのでしょうか(全5回中の1回)。
小さい頃から身近にあった選挙と政治
── 金子さんが政治の世界を意識されたのには、どういったきっかけがあったのでしょうか。
金子さん:
私は新潟県月潟村(現・新潟市)という小さな村の出身なんですが、もともと祖父が村長をしていたんです。父は証券マンでしたが、祖父の体調悪化などにより36歳で村長選に出ることになり、そこから6期半26年村長を務めていました。
だから小さい頃から、「父」というよりは「村長が家に帰ってきてる」という感覚(笑)。4年に1回選挙が必ずあるという環境にいたので、選挙や政治の世界というのが自分にも身近で、村長なのか議員なのかはわかりませんが、「いずれは自分も」と自然に思っていった感じです。
父が村長だったときに、村の保育園、小学校、中学校、図書館を1か所に集めて作ったら、周りに新興住宅地ができて、地方の小さな村にもかかわらず若い世代が集まり、ゼロ歳児が増えたんです。政治や行政の手腕一つで街が変わる、こんなに面白くてやりがいのある仕事はないな、と感じたのもありますね。
── ですが大学では政治ではなく、演劇を専攻されていましたね。
金子さん:
私の生まれた村には『角兵衛獅子(かくべえじし)』という、美空ひばりさんの『越後獅子の歌』のモデルにもなっている郷土芸能があって、私も姉2人とともに舞台に立って演じていました。
自分の生まれた土地の芸能から派生して、全国の民俗芸能や獅子舞を研究したいなという気持ちで専攻しました。早稲田の第一文学部でしたが、実際に役者をやられている方や映画監督などもいて、とても個性豊かな方ばかりで面白かったです。
卒論のテーマは「全国の獅子舞」という非常に渋いテーマでした。
大学での学びは直接的に政治にはつながりませんが、日本にもまだまだ知られていない魅力があり、それを学んだり極めたりすることが、日本人の伝統や文化を検証することにもつながっていたんだなと思います。
それから、優秀な姉2人にコンプレックスを感じていた私を母が気にしてくれていて、「外に出てもっと広い世界を」と言ってくれたこともあり、イギリスやアメリカでホームステイをしたり、バックパッカーで海外を巡ったりもしました。
── 大学時代にも政治を意識されることがありましたか?
金子さん:
はい。特に印象深かったのはネパールに農業支援に行ったときのことです。
首都のカトマンズで、大人が子どもを使って物乞いをさせていたりするのを見て衝撃を受けました。でもその国ではそうせざるを得ない事情があって。教育を受ける機会があれば、子どもを使ってお金を稼ぐことがよくないことだとわかるとは思うんです。
でも、ネパールではそれがまかり通ってしまっていた。「じゃあ日本はどうか?」というと、今はそうでなかったとしても、政治が判断を間違えば日本の姿も変わっていくかもしれないですよね。
海外に行くことで日本の良さを再確認して、より日本が大好きになりましたし、この国が私の子供や孫の世代、またそのさきもずっと平和であり続けてほしい。それには自分も政治に関わらなければ、とそこで思いを強くしました。