子育てに必死になるあまり追い詰められ、自分を責め続けてしまう…そんな母親は少なくありません。

 

「無印良品」の商品開発に13年間携わったのち、2018年に整理収納アドバイザーとして独立した水谷妙子さんも、そんな経験をもつひとり。現在はお片づけのプロとして活躍する水谷さんですが、第一子を出産した当時は、片づけが手につかないほど育児に悩む日々でした。

 

水谷妙子さん

 

産後は精神的に不安定な毎日が続き、のちに「産後うつだったのではないか」と思うほど不安を抱えていたと語る水谷さん。当時を振り返って、いま思うこととは?

片づけも家事も、じつは全部苦手でした

── 2013年2月に第一子を出産されたそうですね。当時の状況を教えてください。

 

水谷さん:

じつは出産の1年前に一度、流産を経験しています。その影響もあって、初めての子どもに対する期待が夫婦ともに大きく、「しっかり育てなくては」と必要以上に責任を背負い込んでいました。

 

ですが、その頃の私は家事全般がすごく苦手で…。会社員時代は商品開発のためのデータ収集やリサーチが仕事だったので、一般的な家事の知識や生活雑貨の情報はあったんですよ。だから、ずっと自分は家事ができると思い込んでいたんです。

 

でも、これは大きな勘違いでした(笑)。本当の意味での“生活に根ざした家事の能力”がないことに、結婚して初めて気づいたんです。

 

── いまの姿からは想像もつかないですよね。家事分担はどのように?

 

水谷さん:

私の実家は米農家なのですが、両親は農業と兼業で働きにも出ていました。母はいまでいうバリキャリタイプ。かなり忙しかったと思うのですが、家事や育児もほぼ母がこなしていました。なので、私も結婚したら、妻が主体で家事をするもんだと思っていたんです。

 

とくに結婚当初は「いいところを見せよう」という気持ちもあったと思います。試行錯誤しながらも、私が家事の主導権を握ってやっていました。

 

そんななかもう一度妊娠して、少しずつ体がしんどくなってきて。重いものの運搬や買い物は夫にお願いしていましたが、その時点では「家事・育児全般は妻がやるもの」という考え方は変わりませんでした。

 

水谷妙子さん

無事に出産も…さらなる悩みの日々が始まった

── 出産されてからのお話も聞かせてください。

 

水谷さん:

育児の第一関門は、母乳が出ないことでした。ちょうど姉も近い時期に出産し、同じときに里帰りしていたのですが、姉は順調に母乳が出ていました。でも、私は全然出ない。

 

それに、うちの子は成長がゆっくりで、体が小さいことも気になっていました。情報をいろいろ検索しては、勝手に不安になってしまって。切なくて、涙がこぼれることもありました。

 

里帰りを終え、実家から東京の自宅に戻ってきた日、私は熱を出して寝込んでしまいました。

 

もう母にも姉にも頼れない。私と夫でやらなきゃいけない。そんなプレッシャーばかりが頭のなかをめぐり、自分で自分を追い詰めたのかもしれません。

 

── 自宅で始まった子育てはどうでしたか?

 

水谷さん:

毎日が必死すぎて、産後半年ぐらいの記憶があまりないのですが…。朝、夫が会社に行くと、そこからは赤ちゃんと2人の時間。誰とも話さなかったし、話す気力もなかったように思います。

 

夜泣きが多い子だったので、生活は昼夜逆転。抱っこしながら朝を迎え、窓の外を見ると鳥がさえずっている…みたいな日々で。常に寝不足でした。

 

しんどいけど、赤ちゃんが泣くから起きるしかない。布団に置くと、なぜか寝てくれない。え、これいつまで続くの?って。先が見えない不安に襲われ、絶望的だとすら思うようになりました。

 

水谷妙子さん
「寝不足が続き、気づけばいつも赤ちゃんを抱えてこの状態だったんですよ…!」と水谷さん

 

水谷さん:

それに加え、「授乳中は赤ちゃんの目を見ましょう」「母乳のためにこれはダメ」という育児ノウハウを盲信してしまっていて。「たまにならいいよね」みたいな心の逃げ場や余裕がまったくなかったんです。

 

「授乳中にスマホやテレビなんて、とんでもない!」って思っていました。しまいには「母乳が出ないのは、私が怠けてるからだ」などと思い始めて。危ないですよね、その思考回路。でも当時はそれがおかしいとは思わなかったんですよ。

 

私はもともとお笑いが好きなのですが、子育て中は娯楽もご法度という気持ちがあって。いま思うと、深夜にオールナイトニッポンでも聴きながら授乳すれば、もう少し気が紛れたかもしれませんね(笑)。

 

── 初めての子育てに一生懸命だったからこそですよね。母乳の問題は解決したのですか?

 

水谷さん:

それが…母乳が出ないながらもミルクと半々ぐらいのバランスで軌道に乗ってきたときに、突然娘がミルクを飲まなくなったんです。それでまたパニックになって。

 

発売している全メーカーのミルクと、哺乳瓶の乳首を買って徹底的に比較しました。どうしたらこの子が飲んでくれるのかと、組み合わせを必死に試して…完全に職業病ですよね。

 

ただでさえ体重が増えないのに、命綱のミルクを飲んでくれない。そうなると「やばい、この子死んじゃうかもしれない!」って…もうなんというか、極限状態でした。

「無理なことは無理!でいい」と思えるように

── 当時、旦那さんには相談できなかったのですか?

 

水谷さん:

私は育休中で、夫は朝から晩まで働いているから迷惑はかけられないという考えもありました。あとは私の見栄っ張りな性格というか、「できない」「やってよ」と言えなかったんです。

 

当時は、夜泣きで夫を起こしてはいけないと思い、寝るときは夫婦別室。夜泣きや授乳は私の仕事で、夫に頼るという考えすらありませんでした。

 

でもある日、帰宅した夫が、電気が消えた真っ暗な部屋で、私が赤ちゃんを抱っこしながらうなだれていたのを見て、声をかけてくれたんです。洗濯物の山と、大量のおむつの段ボールに囲まれた私の様子に、夫も「これは異常事態だ」と感じたんだと思います。

 

水谷妙子さん

 

── そのとき、旦那さんは何と?

 

水谷さん:

「無理しないでいいよ」と。部屋はぐちゃぐちゃでもいい、食事も俺が買ってくるから作らなくていいし、洗濯もなんとかするから、とりあえず生きていこうと。この子と一緒に笑えればそれでいいから、と言ってくれて。

 

その夫の言葉が「自分ひとりで抱えなくてもいいんだ」と思えるきっかけになりました。母乳が多少出なかろうと、体重が増えてなかろうと、この子と私が笑えるようになれればいい、という心境に至った記憶があります。産後6か月目ぐらいだったかな。

 

本当はこうなってしまう前に、心療内科を受診すればよかったと思っています。

 

── 「自分は産後うつかも」と感じても、心療内科に通わなかった理由は?

 

水谷さん:

産後うつという言葉は知っていたけれど、自分がそうであるかは判断できなくて。行ったことのない心療内科へ足を運ぶこともハードルが高かったです。「病院へ行ったほうがいいよ」と誰かに言ってもらえたらよかったけれど、当時は話し相手もほとんどいなかったので。

 

助産師さんのところには通っていましたが、それはあくまで母乳育児のため。母乳を出すためや体重を増やすための助言を受けて、「はい、頑張ります」とただ答えるだけで、弱音は吐けなかった。

 

私の場合は、弱音や愚痴を吐き出せる場所があれば、たどりつくべき場所は心療内科じゃなくてもよかったかもしれません。「大丈夫だよ」と認めてくれる存在があれば、全然違ったと思います。

 

でもその頃、ちょうど離乳食が始まり、「母乳だけじゃない子育ての道もある」という小さな兆しが見えた時期でもありました。その後、離乳食を食べない悩みも出てくるわけですが(笑)、育児への向き合い方が少しずつ変わってきたのはこの頃だと思います。

 

 

「第一子の育児は極限状態の連続だった」と振り返る水谷さん。「完璧主義」「弱音を吐けない」「人を頼れない」という足かせを少しずつはずしていくことで、はじめて状況は好転し始めます。次回は、水谷さんの復職に対する思いと、第一子で悩んだ経験を経て、第二子出産に向けて夫婦で始めた「育児変革」について伺います。

 

PROFILE 水谷妙子さん

夫と9歳の長女、6歳の長男、4歳の次男の5人暮らし。 武蔵野美術大学デザイン情報学科卒業後、無印良品で生活雑貨の商品企画・デザインを13年間務める。2018年、整理収納アドバイザーとして独立。著書に『水谷妙子の片づく家 余計なことは何ひとつしていません。』(主婦と生活社)など。

取材・文/大野麻里 撮影/木村文平