恵泉女学園の創設者、河井道の生涯と、道を支え続けた一色ゆりとの絆を描いた女子大河小説『らんたん』。新渡戸稲造や津田梅子、平塚らいてう、野口英世など近現代史のビックネームらとも交流しながら、道が理想の女子教育を実現させていくまでの道のりを描いた本作は、発売後半年近くたった今でも話題を呼び、重版を続けています。一方、恵泉女学園のOGでもある作者の柚木麻子さんが、母校をテーマに選んだのは、ある意外な理由から。柚木さんは小説執筆時、入念に取材を行いますが、本作の取材を始めたのは、長男を出産して間もないころ。40か所近く保育園に落ち「子どもを連れて行っても怒られない取材先が母校しかなかった」と明かします。

柚木麻子さん
『らんたん』の著者である、作家の柚木麻子さん(撮影/稲垣純也)

「冷蔵庫の残り物でご飯を作る」ように書くしかなかった

—— 『らんたん』の着想を得たのは前作『マジカルグランマ』の執筆時だと伺っています。

 

柚木さん:

そうなんです。5年前、まだ子どもを産んで1年経っていないころ、保育園に40園くらい落ちたんですよ。「どうしよう」というときに『マジカルグランマ』の連載が始まって。

 

元々、母校に行こうと思ったのが『マジカルグランマ』でお屋敷を登場させようと思ったからでした。というのも『マジカルグランマ』も、元々主人公がいろんな場所に行く話にするつもりだったんですが、子どもを産んでから取材に行けなくなったので、主人公を家から出さない方法で書くしかないと思って。

 

そこで、外に出ないお年寄りがお屋敷の中で過ごす話にしようと思ったときに、ピンときたのが、恵泉女学園のすぐそばにあった(『らんたん』に登場する)一色邸だったんです。

 

当時、母校の恵泉女学園で文芸部のコーチをしていたんですけど、そこは先生たちが子どもを見ていてくれたんですよね。子連れだと、どこにいっても「ごめんなさい、ごめんなさい」という感じで、どこにも取材に行けなくて。子連れで取材に行っても怒られない場所を、消去法で選んだのが母校だったんです。

 

元々、一色義子先生は恩師だったのですが、一色家の皆さんを紹介していただいて。調べるうちに、恵泉にある、吉田茂からの手紙とか、篤姫の家紋入りの箱とか、柳原白蓮が残した服とか、村岡花子や津田梅子の写真が見つかって。

 

これは面白いし、なにより子どもがこのまま保育園に入れなくても、恵泉だったら取材OKだろうと思ったことが『らんたん』を書く大きなきっかけになりました。

 

—— 消去法の選択だったんですね。

 

柚木さん:

そうですね。今書いている新作もそうなんですが、ここ数年、子育てやコロナなどいろんな事情で取材ができないから、設定そのものをひっくり返す、みたいなことをくり返しています。

 

書きたかったというより、持っているものでやるしかない。冷蔵庫の残り物でご飯を作る、みたいな。でも「それは本当の芸術じゃない。妥協している」というのは、私は違うんじゃないかと思います。

 

家事をやる必要がない、万が一コロナに感染しても世話をしてくれる人がいればいいですが、私は感染もできないし、子どももいるから、持っているものでやるしかない

 

学校側にもOGにも「子どもを見てもらえるから取材先に選んだ」という事情は話しました。決して愛校心に満ち溢れているのではないことは伝えていて。でもみんな共感してくれました。そこが恵泉っぽいのではないか、と。

 

私が今悩んでいる女性に何か伝えられるとしたら、消去法で「妥協したとしても前に進める」ということ。

 

「これ仕事人としてどうなの?」と思うようなこともしていいんです。妥協したり、ズルしたりすることもあると思うんですよ。でも、自分を責めないでください、と言いたいですね。

 

もうね、女の人は正しくなくていいんです。無理です!

 

私も「今は納得がいく取材ができないので、断筆します」っていうのがかっこいいんでしょうけど、そうも言ってられないので、持っているもので最大限やっています。

コロナ禍で保育園が休園になり、子どもと一緒に自宅で働く人も多い(写真はイメージ)

 「子どもが泣き声を出せない場所はどこか変」

—— 執筆が始まったのは、コロナ禍だったと伺っています。

 

柚木さん:

そうですね。アメリカでの取材も決まっていたんですが、コロナで行けなくなってしまいました。さらに、コロナで恵泉の史料室に入れなくなってしまって。

 

(『らんたん』主人公の)河井道は歴史上それほど有名な人物ではないから、恵泉の史料室が閉まると、情報がどこにもなくなってしまう。「これは執筆断念だな」と思ったときに、津田梅子や新渡戸稲造、平塚らいてうなど、河井道の周りの人は全員歴史上の人物だ、と気がついたんですよ。

 

有名人の文献はどこでも手に入るから、とにかく河井道まわりの有名人の資料を片っ端から取り寄せました。すると、有島武郎の日記にも河井道が出てきた。

 

コロナで家にいる間は、河井道の周囲にいる有名人の資料を調べて、面白いエピソードを抜きとる、という作業をひたすらやっていました。

 

河井道の当時の教え子も、普段なら平和活動で飛び回っていたりするんですが、コロナでみんな家にいたんですよ。家に電話をかけまくって「防空壕の中でどういう話をしていましたか」とか聞いたりしました。(河井道が留学した)ブリンマー大学の卒業生も家にいたので、電話取材ができ、そこはラッキーでしたね。

 

ただ、なんとか工夫してやれることをやったわけですが、「苦しい環境でも工夫して楽しく過ごして、今に不満を持つな」とは思ってほしくないんです。不満は大いに持っていていいし、政治に文句をめっちゃくちゃ言っていい。

 

私もめちゃくちゃ不満は言うようにしています。「オリンピックはやるのに、なぜ私がアメリカに取材に行けないの!?」とか。

 

—— 作中で、一色ゆりの娘・義子が赤ちゃんのころ、河井道が義子を教室に連れて行き、子守をしながら授業したシーンが印象的でした。

 

柚木さん:

あれは実話なんです。当時としては早いですよね。昭和初期、赤ちゃんの義子先生が教室にいる写真がいっぱい残っているんです。

 

私も、息子が1歳ごろ、『らんたん』の取材も兼ねて恵泉ゆかりの教会に通ってましたが、息子が礼拝中に大泣きしたんです。

 

すると、義子先生が「教会は子どもの声がしなきゃダメ。子どもが泣き声を出せない場所は、どこかいびつで変なのよ」って言われて。作中でもその言葉を使わせてもらいました。

 

—— すごく勇気が出る話だと思いました。

 

柚木さん:

今の人に響きますよね。義子先生のお子様は教会で育ったらしいんですよ。教会で三輪車を走らせたりして(笑)。

 

義子先生に「一色家と河井道の話を書きたいんですが、大丈夫でしょうか」と許可を取ったときに、義子先生がおっしゃったのが「ひとつだけ条件があって、読んだときに女性が元気が出るものを書いてほしい」と言われたんです。なので、そこはすごく頑張りました。

 

女性が教育権や参政権を得たのはフェミニズムの功績で、現代を生きている限り、男性も女性も恩恵は受けているんですよ。それを、面白いエンターテインメントで描きたいなと思っていて、そのさじ加減は頑張りました。うまくいったんじゃないかなと思っています。

 

  PROFILE 柚木麻子さん

 2008年オール讀物新人賞を受賞、10年に『終点のあの子』でデビュー。15年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞受賞。近著に『ついでにジェントルマン』。

取材・文/市岡ひかり