「わたしは思い出す、涙は意外と出なかったことを。」「わたしは思い出す、忘れてしまうということを。」

 

東日本大震災の被災者で、仙台市在住のかおりさん(仮名)が11年間にわたって綴った育児日記を通して、震災からの月日を回想する試みが始まっています。かおりさんが第一子を出産したのは2010年6月11日。一歩ずつ成長を祝う「月誕生日」はあの日を境に、多くの人々にとって暗い日付けとなってしまいました。

 

1000年に一度と言われた震災後の10年を、かおりさんはどのように過ごしてきたのでしょうか。そして小さな一つの「わたし」の記録と記憶から、私たちは何を受け取るべきなのでしょうか──

 

育児日記を用いて震災後の11日を振り返る企画展を考えたアーカイブ・プロジェクト「AHA!」世話人の松本篤さん(40)に話を聞きました。

かおりさんの育児日記と聞き取りを題材にした企画展。「わたしは思い出す、」の後にかおりさんが語ったエピソードが続く

我が子の成長を祝う日が「月命日」に 日常にふっと現れる震災の影

かおりさんは2010年6月11日、長女の“あかね”ちゃんを出産。その日から毎晩、日々の些細な出来事や思いを日記に綴るようになりました。産まれたばかりの赤ちゃんを見ても意外と涙は出ずに笑っていたこと、ベビーカーを買ったこと、同じ布団で寝始めたこと...。生後9か月を迎えた2011年3月11日、仙台市沿岸部の自宅で激しい揺れに襲われました。

 

「わたしは思い出す、14時7分を」

かおりさんが3.11当日の記録を付けていた日記帳

 

津波が来ると聞き、夫とあかねちゃんとともに車で内陸に避難。地震発生の直前に寄った沿岸部のおもちゃ店のレシートには、地震前の午後2時7分と刻印されていました。

 

もう少し買い物を続けていたら、かおりさんたちもどこかで津波に遭っていたかもしれません。毎日、日記を付けていたかおりさん。11日は我が子の成長を祝う「月誕生日」でもあり、多くの被災者にとっての「月命日」ともなったのです。

 

あかねちゃんが「マンマ」と話した日、野菜を食べずに怒った日、初めて料理をした日...。ささやかで何げない日常が積み重なる中に、ふっと震災の影がよぎります。

 

かつては遺体安置所となった体育館でアイスショーを見たこと、元上司が亡くなったこと、あかねちゃんに震災のあった「あの日」の出来事を教えたこと....。震災から10年目の21311日には、我が子を亡くした遺族の記事を読んでボロボロと泣き、10年前の日記を読み返して涙が溢れたと松本さんに話したそうです。

 

一日の終わりに、一人だけのダイニングテーブルで。日記帳に、キャンパスノートに、スケジュール帳に、手書きでしたため続けた11年間の日々は数十冊にもわたりました。

「震災」という大きな主語からこぼれ落ちた「わたし」の記録と記憶をたどる

その日に感じ取ったささいなことを日記にしたためてきた

 

松本さんが、かおりさんと出会ったのは、震災10年を控えた2020年10月でした。震災の伝承施設「せんだい3.11メモリアル交流館」での企画展のため、10年間の育児を振り返るワークショップへの参加を呼びかけると、数冊の育児日記を抱えたかおりさんが会場に現れたそうです。

 

「地震という大きな主語で語られた物語にくくってしまうことで、こぼれ落ちている小さな記憶があるという感覚になりました。単に3月11日に着目するだけでは見えてこない光景があります。かおりさんという一人の視点から10年の年月を振り返ることで、一日一日の小さな記録と記憶のかけらを拾い集め、埋もれていた物語を分かち合いたい。

 

日記を再読しながら何を思い出したのか、書いてあるのに忘れてしまった記憶はあるのか。記憶を美化せず、語りを要約しない。地震から10年間の日記をもとに思い出してもらうことが大切。その結果として、『被災地』の複雑な現状が後世に伝わればいいと思いました」

 

日記を基にした聞き取りから再編した文章

 

出会って一か月後から、かおりさんに日記を再読してもらいながら、振り返ってもらう形での聞き取りを始めました。一回の取材で2〜3時間かけ、半年分ずつ日記を再読し、そこに書かれていない一日一日の記憶を辿ってもらったといいます。取材はのべ30回に及び、10年分の日記と聞き取りを基に再編した文章は20万字を超えました。

 

リフレインする「わたしは思い出す、」

 

日記の再読と回想を基に編集・構成した文章は毎月11日のエピソードを起点にし、この短いフレーズから始まります。これまで、再編した文章を題材にした展覧会「わたしは思い出す」を仙台、神戸で開催。他の地域でも巡回展を予定しているそうです。

語りの主語を「震災」から「私」へと置き換える

それぞれ東日本大震災、阪神淡路大震災の被災地である仙台、神戸で行われた企画展

 

震災に関する報道や企画では、肉親や我が子、友人を亡くした遺族や犠牲者が大きく取り上げられるのが常でした。かおりさんは自宅が浸水被害を受けたものの、そうした人々の影に埋もれていた被災者といえるかもしれません。松本さんは「形式化された伝承の在り方を崩す試みだった」と言います。

 

「3月11日は多くの人にとってとても大切な日なのに、この10年の間にどこか形式化・形骸化していっているようにも思えました。ひとは時間が経てば経つほど、自分の身近な記憶を経由しなければ、思いを馳せるということが難しくなっていくと思うんです。そういう意味で、あるひとりの女性が記録に残し続けてきたことに注目することは、とても重要だと思います。

 

かおりさんにとって我が子の成長を祝う日は、多くの犠牲者の『月命日』でもあります。かおりさんは手放しで喜べない複雑さを受け入れつつも、人生の一コマ一コマを大切にされている印象でした。これまであまり光の当てられてこなかった一人の女性を真ん中に据え直し、一つ一つの思い出を振り返ってもらうことで、『地震』という大きな主語の中にいる一人ひとりを想像してもらえると思いました」

一人ひとりの思い出を経由して3.11に立ち戻る

あかねちゃんの12歳の誕生日、611日には回想録「わたしは思い出す」が刊行されます。育児日記を基に、出産日からの歳月を聞き取った10年分の振り返りの言葉。さらに追加の取材を実施し、11年分の回想の記録がまもなく完成します。かおりさんが大切に保管していた育児の思い出の品500点の一部も写真に収め、掲載される予定です。

企画展で配布されたパンフレット。かおりさんの10年が詰まっている

子どもが誕生した日、大事な試験の日、初めてデートをした日、大切な家族が亡くなった日...。震災の記憶だけに縛られることなく、一人一人が「わたしは」に重ねて、ページをめくりながら大切な記憶を思い起こしてほしいと松本さんは言います。

 

「それぞれに大切な日付けがあった人々が、あの地震で命を落としました。自分にとって忘れられない日付けやエピソードを振り返ってもらい、その思い出を経由して3月11日に戻ることができれば、『地震』という大きな出来事を自分ごととして捉え直すきっかけになるのではないかと思っています。」

 

「震災」「被災者」「遺族」大きな言葉の中に佇む人々の姿は、時間が経てば経つほどおぼろげになってしまいます。一人の女性の記録と記憶から、確かにあった鮮明な営みを感じ取れるのではないでしょうか。

取材・文/荘司結有 写真提供/AHA!