「幼いながらに人は年齢の順に死ぬものだと思っていて…。私より幼い子が亡くなったと聞いて、『自分が死んだ方がよかったんじゃないかな』って。小学生のあいだ、そう思い続けました。」

三浦瑞穂さん
三浦瑞穂さん(20)

宮城県・気仙沼市で生まれ育った三浦瑞穂さん(20)。小学校3年生、9歳の時に被災しました。大好きだった海が20メートルの黒い壁となって街に押し寄せた日。必死で逃げた先の高台で、「夢であってほしい」と強くほっぺたをつねったことを今でも覚えていると言います。

 

気仙沼市では、津波の影響で重油タンクが倒壊し、大規模な火災も発生。1218人の方々が亡くなり、行方不明者は214人にのぼります(2022年3月現在)。

 

瑞穂さんが過ごした避難所でも、悲しい知らせを聞く日々が続きました。幼い子どもを亡くし、遺体安置所から戻って泣き崩れる人たち。弟を亡くした友人もいました。瑞穂さんの弟と妹が通っていた保育所でも、3人の子どもが亡くなりました。

 

あの日から11年。「自分が死んだ方がよかった」と思った日から11年。

 

瑞穂さんは「私はもう、自分の人生をむげにしない」という強い決意とともに、20歳を迎えました。

 

あの日、震災がこどもたちに背負わせたものはなんだったのか──

 

孤独に痛みと向き合ってきた少女の11年のあゆみ、瑞穂さんの人生を支えつづけた「音楽」と、その先に見出した「光」について伺います。瑞穂さんが今、奏でたい「11の希望の音」とは

三浦瑞穂さん
チューブラーベルを鳴らす瑞穂さん

「キラキラ光る海を眺めるのが好きだった」幼いころ

── 生まれ育った街、気仙沼について教えてください。

 

瑞穂さん:

海も山も近くにあって、自然豊かで。幼い頃は、のびのび過ごせる気仙沼の景色を気に入っていました。海とともにある街なので、海で遊んだ思い出がたくさんあります。家族と潮干狩りに行ったり、夏は海水浴を楽しんだり、海辺を散歩したり。

 

特に浜の景色が好きでした。晴れた日には海面がキラキラ光って「きれいだなぁ」って眺めていたことをよく覚えています。

 

── 震災があった日は、おうちにいたんですよね?

 

瑞穂さん:

はい。その日、父と母は仕事に出ていて、6歳の妹と4歳の弟は保育所にいました。ピアノ講師をしていた叔母も仕事に出ていたので、家には私と祖父と祖母の3人でした。

 

地震が起きた午後2時46分は、学校から戻って、習字教室に行く直前でした。習字教室は少し離れた地区にあって、いつも祖父が車で送ってくれていたんです。時間に厳しい祖父が「おい、早く行くぞ!」と私を急かしていたのですが、祖母がむいてくれたりんごを食べていて。「ちょっと待って!あと1個食べてから!」と祖父を待たせていました。

 

そのりんごを口に入れた瞬間に、大きな揺れがきたんです。

 

習字教室は津波をかぶった低い土地の道路を進んだ先にありました。だからあの時、りんごを食べていて本当によかったなって。「りんごが救ってくれたね」と家族で話したことがあります。

 

── 揺れがきた時、どんな行動を取りましたか?

 

瑞穂さん:

扉がゆがんで開かなくなると大変なので、とっさに玄関の扉を開けようとしたのですが、あまりに揺れが強くてしゃがみこんでしまって。心配した祖母が私の上に覆い被さり、その上に祖父が覆い被さりました。体験したことのない激しい揺れでした。

 

いったん揺れがおさまったので外に出てみると、玄関のところに大きなヒビが入っていました。その後も何度か大きく揺れて、屋根の瓦が崩れ、家の中からガシャガシャと何か壊れるような音も聞こえてきて…。「家が壊れる」と思ったのを覚えています。

 

── 地震のあと「すぐに津波が来る」と思いましたか?

 

瑞穂さん:

気仙沼は過去にも津波があった地域なので「津波がくるかもしれない」とは思いました。でも、私の家はかなり高いところにあったので「まさかこんなところまで津波がくるわけないよね」というのが近所の人も含めた共通の認識でした。

 

保育所は低い場所にあったので祖父が慌てて妹と弟を迎えに行きました。祖母と2人、帰りを待っている時は不安で…。

 

祖父に連れられて帰ってきた妹と弟の顔を見た時は、心からホッとしました。

「じいちゃん、逃げて!」記憶から消えた津波の「音」

── その後、津波がくるまでのことを教えてください。

 

瑞穂さん:

「津波はここまでこないから、逃げなくて大丈夫」と言われて、妹と弟と車の中にいたんです。でも、外にいる祖父母や大人たちがざわざわしているのがわかって「大変なことが起きるんじゃないか」という予感を止めることができませんでした。

 

なにかを見た祖母が、慌ててこちらに駆け寄ってきて車の扉を開けて、こう言いました。

 

「黒い壁が迫ってるから、逃げるよ! 急いで!!」

 

祖母は本当に慌てていて、気が動転しているようでした。

 

家の目の前にある国道に出た瞬間に、国道の両サイドから茶色の波がザバーっと迫っているのが見えたんです。

 

速く走ることができない祖母の背中をきょうだい3人で必死に押しました。「ばぁちゃん、がんばれ、がんばれ」と声をかけながら。

 

あれ、じいちゃんは?と思ってふと振り返ると、祖父は国道を挟んで向かい側にいて、誰かを助けようとしたのか波の方に向かおうとしていました。

 

「そっち行っちゃダメだー!!!」「行かないでー!!」「波にさらわれるから早くー!!」と口々に叫びました。

 

── おじいちゃんはご無事で?

 

瑞穂さん:

はい。幸い、祖父も祖母も私たちも無事に高台にある近所の方のおうちの庭先まで逃げることができました。

 

「少しでも高いところに」と思って大きな石の上に登って、海の方を見たんです。そしたら、家屋の2階の部分が次から次ににザーッと流されていくのが見えて…。海からはだいぶ遠かったので、人の姿は見えなかったけれど、でもあの時、たくさんの人が流されていたんだと思います。

 

信じられませんでした。「これは夢だ、夢であってほしい」と思って、強くほっぺたをつねりました。でも、ほっぺたは痛くて「夢じゃないんだ…」って。

 

結局、我が家から2軒となりの家から海側の家はすべて流されていました。

 

── 信じがたい光景ですよね。

 

瑞穂さん:

…こうして思い返しながら話していても、わたし、津波の「音」を思い出せないんです。

 

きっとすごい音がしていたはずなんですけど…。家が壊れるバリバリーーーっていう音とか、波が迫ってくるザーッっていう音とか。でも、映像と自分の声だけが耳に響いてくるだけです。「ばあちゃんがんばれー」とか「じいちゃん、逃げてー!」っていう、自分の声だけが頭の中で反響してる。

 

幼い頃からピアノを習っていて、わりと「音」に敏感な子どもだったんですけれど…。

 

「忘れたい」っていう気持ちと、やっぱり、津波がすごく怖かったんだと思います。

苦しかった小学生時代「わたしが死んだ方がよかった」

── その後は避難所に移動したんですか?

 

瑞穂さん:

一時避難所になっていたおうちの庭先に車を停めて数時間過ごしました。市内から戻った父の携帯のワンセグでずっとニュースを見ていました。仙台空港のLIVE映像で、いくつもの飛行機が海に浮かんでいる様子を見た時に「あぁ、他の地域も同じ状況なんだ」と思いました。

 

「信じたくない」という気持ちと、「目をそらしちゃいけない」という気持ちと両方だったと思います。これからもっとひどい被害状況が明らかになる。その前に、心の準備しておかなきゃいけないって。気持ちを整理するために、あえてショッキングな映像を見ていた気がします。

 

── とても冷静な感覚ですね。その後も車での生活がつづいたんですか?

 

瑞穂さん:

いえ。避難所になっていた中学校に家族で移動しました。避難所はぎゅうぎゅうづめで身動きがとれないほどでした。物資も食料もなく、その日配られたのは1人1枚のビスケットだけでした。

 

それから数日は、本当につらい日々でした。家を流されてしまった友人もたくさんいたし、毎日のように悲しい知らせを聞くことになりました。

 

── …特に印象に残っている出来事はありますか?

 

瑞穂さん:

遺体安置所から戻った人たちは、泣き崩れ、声もかけられないほど憔悴していました。幼い我が子を亡くした方もいるし、わたしの友人は弟を亡くしました。

 

街の保育所でも、3人の子が亡くなったんです。幼い妹と弟に「お友達が死んでしまったよ」と伝える時に、こんなに悲しいことがあるのかと思って…。

 

わたし、幼いながらに、人は年齢の順に逝くものだと思っていたんです。

 

私より幼い子が亡くなったと聞いて、「どうしてわたしが生きているんだろう?」と自分を責めるような気持ちになりました。私はもう9歳なんだから、私が代わってあげたかった。きっとどの子も生きたかった。「私が死んだ方が良かったんじゃないか」と、ずっと思い続けたんです。

 

── その気持ちを誰かに打ち明けることはありましたか?

 

瑞穂さん:

…いえ。自分も苦しかったけど、周りの大人もつらいだろう、妹も弟もきっとつらいだろうと思っていました。みんなつらいのだから「自分の気持ちくらい自分でなんとかするしかない」って。

 

人前では決して泣かなかったけれど、当時は1人になるたびに「どうして」「なぜ」と考えて、よく泣いていました。

 

── 大人から見れば、9歳は子どもです。けれどこうしてお話を聞いていると、瑞穂さんはすごく冷静に周りを見ていたし、とても重たいものを背負ってしまったんですね。

 

瑞穂さん:

そうですね…でも何かを背負ったのは、私だけじゃなかったと思います。子どもたちはみな、誰も何も言わずに耐えていました。同級生の中には家族を失った子も、家を流された子もいたけれど、学校が始まっても、「悲しい」とか「つらい」とかいう子はいませんでした。

 

9歳って、今何が起きているか冷静に考えられるくらいには成長しているけれど、痛みを言葉にして分かち合うほど大人ではない。大人たちは言葉にして気持ちを分かち合って、発散しているようだったけど、子どもはそうじゃありませんでした。

 

「震災のことを話せば、誰かの深い傷をえぐるかもしれない」

 

みなそう思って、押し黙って、つらいものに蓋をしていました。学校では勉強して、休み時間にはテレビの話をして、表面的には普通の学校生活を送ったんです。

幼い頃の三浦瑞穂さん
震災後に再開した学校で 小学4年生の時の運動会で撮影した1枚(本人提供)

笑顔を失った子もいるし、サイレンの音が聞けない子もいました。みなそれぞれに、いろんな想いを抱えていたのだと思います。

音楽が教えてくれた「わたしは欠けてはいけない存在」

── その後、何か前を向くきっかけはあったのでしょうか?

 

瑞穂さん:

そうですね。ひとつ、自問自答しつづけて辿りついた想いがありました。

 

「自分が代わってあげたい」って9歳の私も思うのだから、周りの大人はもっとそう思っているだろうって思ったんです。祖父母の世代はもっともっと強く思っているかもしれない。でも代わってあげることはできない。苦しいけれど、受け入れるしかない。

 

ならば、こんな風に下を向いて生きちゃダメだと思えたんです。亡くなった子どもたちの分も、彼らが生きたかった未来を、私が生きなきゃダメだなって。

 

── 自分自身でそこまで辿り着いたんですね。

 

瑞穂さん:

そうですね、、中学生くらいまでかかっちゃったんですけど。本当に少しずつ。あともうひとつは「音楽」です。

 

── 詳しく教えてください。

 

瑞穂さん:

中学3年生の時に、音楽家の坂本龍一さんが立ち上げた東北三県の子どもたちで結成された「東北ユースオーケストラ」の二期生になったんです。

三浦瑞穂さん
東北ユースオーケストラで監督を務める音楽家の坂本龍一さんと仲間たちと(本人提供)

ピアノの先生だった叔母の影響でピアノをはじめて、幼い頃からずっと音楽が好きでした。中学生の時は吹奏楽部でパーカッションを担当していました。中学2年生の終わりに叔母から「応募してみない?」と誘われて「やりたい!」と。

 

入団してみたら、みな私より上手で、ついていくだけで大変だったけど、仲間たちとの練習がとても楽しかったです。大きな舞台で本番を迎えて、会場のお客さんから割れんばかりの拍手をもらった時は「やったーー!!」「やりきったー!!」っていう達成感や充実感がありました。

三浦瑞穂さん
東北ユースオーケストラの二期メンバー 後方、左から2番目が瑞穂さん(本人提供)

── 「楽しい」と思えることに出会えたんですね。

 

瑞穂さん:

はい。あともうひとつ大切な学びがありました。

 

オーケストラって、たくさんの音が重なって1つの音楽になるんですけれど。自分のパートも、その音楽を構成する大事な1つになっていて…。

 

なんていうか「自分も欠けちゃいけない存在なんだ」って。自分が生きていることを肯定できるようになりました。

 

── 大事なことを音楽に教えられたんですね。

 

瑞穂さん:

本当に音楽に助けられて…。

 

あと、東北ユースオーケストラに入って、初めて自分の体験を打ち明けることもできました。

 

合宿の時に、何人かの団員と事務局の人と話していて、「気仙沼はどうだった?大変だったでしょう」と聞かれた夜があったんです。

 

私は家族も失っていないし、家も流されていない。周りの友人に比べたらそこまで大変な目には遭っていないとずっと思っていました。でも津波の話を始めたら、自分の手足がガクガク震え始めて、止まらなくなってしまって…。自分でも驚きました。

 

その時初めて「あぁ、わたし怖かったんだ。つらかったんだ」って。自分の気持ちを初めて見つけることができた気がしました。

 

これまでは話す余裕も環境もなかったし、心情的にも厳しかった。でも「これからは話そう」と思えました。自分のためにも、震災を風化させないためにも。

 

今、祖父と弟が気仙沼で語り部の仕事をしているのですが、家族のそうした活動も今はとても誇らしく思っています。

希望の「11音」強い決意をもって鳴らしたい

── 3月22日の岩手公演を皮切りに、一都三県での東北ユースオーケストラの公演が始まりますね。コロナ禍で2年連続中止になり、3年ぶりの公演ですね。

 

瑞穂さん:

はい。ここ数年、ずっと同じ曲を練習してきたので「やっと演奏できる」という気持ちです。団員一同、心から楽しみにしています。

東北ユースオーケストラ
2/26、2/27に福島県で行われた東北ユースオーケストラの合同練習の様子

── 坂本龍一さんが東北ユースオーケストラのために作曲した曲「いま時間が傾いて」も世界初演で演奏されますね。

 

瑞穂さん:

そうですね。震災から生まれたこの楽曲に関われることが純粋に光栄という気持ちです。

いま時間が傾いて

坂本さんが作ったこの曲を初めて聞いた時、私が歩んだ11年を思いました。

 

津波から逃げた日のこと、当時渦巻いていたいろいろな感情、つらいことも、苦しいことも1つ1つ辿りながら擬似体験しているような…。

 

でも最後に、祈りの中で希望の音が鳴るんです。

 

最後のあの音は「つらいこともあったけど、これからはきっといいことが起きる。起きるようにがんばる」という決意のように私には聴こえるんです。

三浦瑞穂さん
「いま時間が傾いて」の演奏の最後にチューブラベルを打ち鳴らす瑞穂さん

── 合同練習でも拝見しましたが、瑞穂さんが大切な役割を果たしますね。

 

瑞穂さん:

はい。責任重大でプレッシャーもありますが、「11」という数字を大切に作られた楽曲の、最後の「11音」をぜひ多くの方の聞いていただきたいです。

 

本番でも「負けない」という強い決意をもって鳴らしたい。1人でも多くの方に前向きな気持ちを受け取ってもらえると嬉しいです。

三浦瑞穂さん
東北ユースオーケストラで指揮を務める栁澤寿男さんと瑞穂さん

── 瑞穂さんは、去年20歳を迎えましたね。

 

瑞穂さん:

あの日から、11年…。いろいろなことがあって、あっという間だったのに、もう「大人」といわれる年齢になるなんて少し信じられない気持ちです。

 

── 20歳を迎えた今、瑞穂さんの将来の夢を教えていただけますか。

 

瑞穂さん:

今は福島大学で音楽を学んでいます。将来は私を助けてくれた音楽の力を、子どもたちに伝えられる人になりたい。そう思って、中学と高校の音楽の教員資格、特別支援学級の教員資格の取得を目指して勉強しています。

 

学校の音楽室は誰もが一度は通る場所なので、その場所から伝えていけたらいいな、と。

三浦瑞穂さん

── 大きな問いになってしまいますが、これからどんな風に生きていきたいと思いますか?

 

瑞穂さん:

この先もきっとつらいことはあると思うんです。その時に、逃げてもいいけど、折れずに生きたいと思います。

 

自分の人生をむげにせず、前を向いて生きていきたい。

 

あの日、生きたかった子の分も、やりたいことに精一杯向き合って生きていけたら…。今は、そう思っています。

 

 

11年前、記者の1人として被災地の小学校の再開を取材しました。当時は喜ばしいニュースの1つとして報道し、子どもたちの笑顔を伝えたことを覚えています。

 

けれど、さまざまな被災体験を持つこどもたちが、心の整理もつかないうちに共に過ごさねばならならなかった学校という場は、時として残酷な場所でもあったのかもしれません。瑞穂さんの言葉を聞き、あの日、子どもたちの笑顔の裏にあった葛藤に、初めて思いをよせることができました。

 

「苦しかったけれど、きっとなにか意味はあったと思う」

 

取材の最後にそう話してくれた瑞穂さん。自立した女性へと向かう、たくましい後ろ姿を見せてくれました。

 

東北ユースオーケストラの公演は、3月22日の岩手公演を皮切りに、宮城、福島、東京で開催予定です。

取材・撮影/谷岡碧 写真提供/三浦瑞穂 取材協力/東北ユースオーケストラ事務局