「トンガ噴火の津波が来ることは早朝、出発する前に漁師の友達から連絡があり、知りました。
震災のときのように、地震の揺れを感じたわけではないのに津波とは、何だか不思議な感覚がしましたね。
すぐに避難という感じではなかったので、夫は様子を見てくるということで港へ出発しました。
浪江(請戸港)でも40センチくらいの潮位の変化があったようですが、問題なかったのでそのまま漁をしたそうです」
1月16日未明から、日本でも潮位の変化があったトンガの海底火山の噴火について話すのは、福島県南相馬市の山形千春さん(57)。
11年前の東日本大震災のときは、東京電力福島第一原発から北に10キロほどの浪江町で夫・一朗さん(60)の漁業の手伝いをしていましたが、そこにはもう戻ることはできません。
海水が引き、とんでもないことが…
しかし、思わぬかたちで当時の皇太子さま(62)と雅子さま(58)のお見舞いを受け、それを励みに頑張ってくることができました──。
「あの日は、地上波デジタル用のテレビを買うためのお金をおろそうと、港の漁協組合に行くと、立っていられないほどの大地震に襲われました。
外を見ると海水がサーっと引いていったので、とんでもないことが起こるのではないかと、すぐに家に帰りました」
震災時の体験をそう振り返る千春さん。
その後、家族と車で役場に避難して、山あいの地域に移り一夜を明かしますが、原発が爆発したとの報を聞き、東京の親戚を頼って出発しました。
14時間かけて東京に避難
「高速道路を使わないで一般道を使い、道に迷いながら、東村山市の親戚の家に着くまで14時間もかかりました。
ただ、親戚を頼ってばかりも迷惑だと思い、東村山の役場に相談すると、調布市の味の素スタジアムが受け入れているとのことで、そちらに向かいました」
スタジアム内の体育館で、先行きが見えない不安な避難生活を送っていた千春さんたちに思わぬ報せが舞い込みました。
皇太子さまと雅子さまが、お見舞いにいらっしゃる──。
頭が真っ白になり…
未曽有の大災害に皇室の方々も心を痛めていて、当時の天皇・皇后両陛下は、都内に避難してきた被災者らへのお見舞いを始めていました。
そして、皇太子ご夫妻による初めてのお見舞いが、味スタになったのです。
ただ、当時の雅子さまは病気療養中で公務などへの出席は限られていたので、その日もいらっしゃるかどうかは、直前までわからない状況だったといいます。
“お身体は大丈夫ですか?”“これからは、どうされるんですか?”
実際には、雅子さまからそんなお声がけがあったそうですが、千春さんは頭が真っ白になり、ほとんど覚えていないそうです。
「夫が“脚が悪いので、膝を崩してもいいですか?”なんて失礼なことを言っていたのは覚えていますが(笑)。
でも、雅子さまのお優しい笑顔は今でもよく覚えていて、それを励みに今まで頑張ってくることができました」
津波で流された自宅は堤防に
東京で4年ほどの避難生活をへて、山形さん夫妻は現在、浪江から北に20キロほどの福島県南相馬市で生活しています。
「味スタに避難した後は江東区にある公務員宿舎で4年ほど、暮らしていました。
私が結婚して27、8年住んだ浪江の自宅は、震災の津波ですっかり流されてしまい、今は高い堤防ができています。
地震直後は自宅周辺に立ち入ることはできなかったので、ボランティアの人たちが残っていた品などを持ってきくれたこともありました。
うちで見つかったのは、庭石とパールのネックレスと夫との結婚のときの写真でした。子どもたちの写真が残っていてほしかったんですが(笑)」
福島に戻り漁を再開
東京での約4年の避難生活には、あまりいい思い出はなかったと千春さん。
「夫はフラフラしていて、私は認知症気味で寝たきりになった義父の世話もありましたから。
私自身も股関節の手術をして、あまり遠出もできなかったもので…。
義母は東京から南相馬に引っ越している間に親戚宅で、かつて夫と漁をしていた義父は引っ越し後に亡くなりました」
ただ、南相馬に移ると一朗さんは漁師仲間の船に乗ることで漁を再開しました。
「浪江の港まで通いになったので、毎朝1時半に家を出ています。冬場だと路面の凍結もあるので注意が必要です。
足腰も弱くなっているので、心配ではありますね」
令和元年に新しい船を
震災前は請戸港の漁船は120隻ほどでしたが、現在は30隻もない状態だそうです。
「主にヒラメやカレイを捕りますが、漁獲量は減っていますね。
というのは、震災前は福島第1原発近くの海で漁をしていましたが、今はそのエリアに立ち入ることはできないので、北側でするしかありません。
不慣れな場所ですし、以前ほどの量は獲れないですね。震災や放射能の事故がなければと思いますが、怒りより悲しみの気持ちが強いですね」
時代が平成から令和になり、雅子さまが皇后になられると、また“ご縁”を感じる出来事が千春さんにありました。
「津波で沈んだ船を新たに造ることになり、完成して進水式を行ったのが、雅子さまが皇后さまになられた令和元年だったんです。
家が何軒建つのか…という額でしたが、夫がやはり、自分の船で漁をしたいということになりまして。
私も夫に付いていき、漁を手伝わなくてはいけないので、郵便局の仕事を辞めました。漁師には定年退職がないので、頑張ってもらうしかないですね」
私たちの船も雅子さまと同じように…
早朝、一朗さんを送り出した後、千春さんも4時には家を出るそうです。
「獲れた魚を競りにかけるまで、いけすに入りたり、網を広げて翌日の準備をしたりしています。
恥ずかしい話ですが前に一度、船に乗るところで海に落ちてしまったこともあるんですよ!
私は雅子さまとは同学年なので、雅子さまが令和の皇后になられたときは、私も新たに頑張らなくてはと思いました。
私たちの船も、令和の天皇・皇后両陛下と同じように歩み続けていければいいですね」
取材・文/CHANTO WEB NEWS 写真/日本雑誌協会代表取材、山形千春さん、PIXTA