樋口一葉が執筆に邁進するイメージのイラスト

貧乏な人がハングリー精神で、道なき道を切り拓くことはあります。それは、過去の先達も同じ。「明治時代に活躍した作家、樋口一葉も例外ではありません」と話すのは、偉人研究家の真山知幸さんです。苦難の連続だった彼女は、貧困の苦しみや不安の中から、どのように道を切り開いたのでしょう。

父のお金儲けに嫌悪感を覚えた少女時代

小さい頃から本が好きだった樋口一葉が、小説家を目指すと決めたのは、19歳の時。理由はシンプルに「生活費を稼ぐため」でした。といっても、最初から貧乏だったわけではありません。農民から士族へと成り上がった父の則義は、株への投資など金融業も行っていたため、樋口家はむしろ裕福でした。

 

金儲けに走る父をみて、一葉はこんな嫌悪感を持つくらいでした(『全集 樋口一葉』〔復刻版、小学館〕より。※現代語訳は著者)。

 

「ただ利欲に走る浮世の人あさましくいとわしく、そのためにこれほど狂えるのかと見れば、金銀はほとんどチリのように見える」

 

一葉は士族の娘としての誇りを大切にしていました。それだけに、父の金融業には複雑な思いを抱いていたのでしょう。しかし、ある日を境に、一葉の人生は一変。そのチリのような金銀のために、大いに悩まされることになるのです。

父の死で一転して貧乏生活へ、仕事もなく

明治22年、一葉の父が59歳で肺結核によって病死。その1年半前には、長男にあたる兄の泉太郎も同じく結核で亡くなっていました。やむを得なく、次女の一葉が17歳の若さで戸主となり、母と妹を支えていくことになったのです。

 

樋口家は本郷菊坂町で借家を借りて、新生活を始めます。しかし、女性ばかりの生活は苦しいものでした。三人それぞれが仕事をして稼がなければなりませんが、一葉は目が悪く、母や妹のように針仕事ができません。

 

そこで一葉は執筆によって原稿料を稼ぐことを決意。新聞の専属作家として活躍中の半井桃水に師事して、文章修行に励みます。しかし、なかなか思うような作品が書けません。日記には、こんな苦しみを綴っています。

 

「午後から机に向かって、文章をとりとめなく書き続けたが、心ゆかぬことばかり多くてもう10回も原稿を引き裂いては、捨てている。いまだに一篇の文も作り出せないのは信じられない」

 

それでも「今日から小説を11回ずつ書くことを日課にする。1回書かない日は黒丸をつけると決める」と自らを鼓舞して、一葉は書き続けます。努力の甲斐があって、1年で8編にも及ぶ短編を発表。人生が少しずつよい方向に動き始めたかに見えました。

 

しかし、そう甘くはありませんでした。原稿料があまりに安いため、いくら書いても生活は困窮。もはや借金をするあてもなくなり、母からは「筆が遅い」と責められます。何もかも嫌になってもおかしくない状況ですが、一葉は低迷をむしろ新しいことに挑戦する機会ととらえ、雑貨屋の開業に踏み切ります。

 

そのときの高揚感を、一葉は日記にこんなふうに綴っています。

 

「今夜は何だか胸がさわいで眠れない。それというのも新生涯をむかえて旧生涯を捨てるという大事なことが目の前に横たわっているのだもの」

 

小説家から雑貨屋の店主へ──21歳での再スタートでした。 

雑貨屋を開くも9か月で閉店に追い込まれる

雑貨屋では当初、日用雑貨を売っていましたが、やがておもちゃや駄菓子なども仕入れるように。夏祭りにあわせて、子どもが衣装につけたくなるようなものを考えては、一葉は動物のおもちゃや小鈴・大鈴などを仕入れました。商品のなかで最も人気があったのは、ゴム風船だったそうです。

 

雑貨屋の主人になった一葉は、商品の買出しに出かけたり、店番をしたりしながら、地元の子どもたちと交流を深めていきます。店を切り盛りして一時期は売上が好調のときもありました。

 

しかし、近くに同業者が現れると、売上はみるみるうちに激減。雑貨屋の経営は悪化し約

9か月で閉店へと追い込まれてしまいます。いよいよ八方ふさがりになり、樋口家はどん底状態。日記にも悲壮感が漂っています。

 

「今日夕飯が終わると、もう一粒の貯えもないと、母はしきりに嘆いて、妹も愚痴をこぼす。私は『何とかするから心配しないで』と慰めたけど、自分だってどうしていいかわからない」

 

もはや限界かもしれない。そんなふうに考え始めた頃でした。一葉のもとに、新聞社から執筆依頼が次々と舞い込むようになります。

 

実は、一葉が雑貨店を経営している頃、噂を聞きつけて、雑誌の編集者や執筆仲間が訪ねてくるようになりました。誘われるがまま再び筆をとった一葉は、店の切り盛りをしながら、『琴の音』と『花ごもり』という2作の小説を完成させています。

 

雑貨店も閉店した今、一もはやこれ以上失うものはありません。一葉は再び専業作家として筆を振るい始めることになったのです。

苦労した経験が小説に活かされる

苦労の多い下積み時代は、一葉を確実に成長させていました。執筆のスピードが格段に上がっていた一葉は、たった2か月で自伝小説『にごりえ』を完成。この作品で、一葉は『閨秀作家』、つまり「学問、芸術に秀れた女性。才能豊かな婦人」として世に知られることになります。

 

一葉は、友人で作家の川上眉山からこんな言葉をかけられたことを、自分の日記に綴っています。

 

「あなたのためには気の毒だが、あなたの生涯はまことに詩人の面白い生涯である。すでに経てきたところは残りなく作品にして、がんばってください。あなたが女流作家として、日本文学に光を与えられる作品が書けるはずです。切に筆をもって世に立ちなさい」

 

『たけくらべ』の新聞連載も精力的にこなした一葉。雑貨屋を経営した実体験が活かされたこの作品は、森鷗外や幸田露伴などにも高く評価され、一葉の代表作となりました。人生にムダな経験などないと、一葉は実感したことでしょう。

 

一葉が『にごりえ』『たけくらべ』などを生み出した期間は「奇跡の14か月」と呼ばれ、希代の天才女流作家として、日本文学史に深く名を刻むことになります。

 

しかし、このときすでに一葉の身体は病魔に冒され始めていました。一葉もまた、父や兄の命を奪った肺結核を患っていたのです。明治29年、診断を受けてから、4か月もたたない1123日に一葉は死去。24歳の若さでした。 

困難があるから「生きる力」を生み出せる

一葉の短い人生は、その大半が貧しさに苦しめられたものでした。ですが、もし、一葉が裕福な家庭で平穏に暮らしていたならば、名作を残すことはなかったでしょう。

 

「お金がない」困難に打ち勝とうする力が、生きる原動力となった一葉。その「貧乏力」ともいうべきパワーは、私たちに大きな勇気を与えてくれます。

 

仕事で新しい挑戦をしようとすると、数々の困難が立ちはだかることでしょう。予算が確保できず、一葉のようにお金のことで頭を悩ますかもしれません。人材もどうしても不足しがちです。

 

しかし、挑戦する壁が高いと「もう難しいかも」と、諦めたくなるのは当然のことです。そんなときこそ、何度となくどん底から這い上がった、樋口一葉の人生に思いを馳せましょう。「きっと、大丈夫!道は必ずある」。そんなふうに自分をもう一度、信じてあげることができるはずですから。

文/真山知幸 イラスト/おかやまたかとし