仕事がまるでうまくいかない、誰も助けてくれない。そんな大ピンチを迎えたとき、偉人たちはどう対処したのか。偉人研究家の真山知幸さんは、「明治を代表する実業家・広岡浅子の人生が大きなヒントになります」といいます。苦境に打ち克つには何が必要なのか、彼女の生涯からひもときます。
嫁ぎ先のヤバすぎる状況に絶句…
嘉永2年、浅子は京都で小石川三井家、6代当主の三井高益の庶子(正室ではない女性から生まれた子ども)として生まれました。三井家に迎えられたのは、2歳のとき。妾の子という立場でしたが、浅子は三井家で活発な幼少期を過ごします。
とはいえ、三井家で自由奔放な幼少時代を過ごしたわけではありません。将来に備えて、三味線、お琴、裁縫、茶の湯と厳しい花嫁修業が課せられました。
しかし、それは浅子が本来したかったことではありませんでした。浅子は趣味の読書を楽しみにしていましたが、それさえも禁じられることになります。浅子の著書『人を恐れず天を仰いで』では、そのときの心情が吐露されています(以下、「」内は同書より。※現代語訳は筆者)。
「女子といえども人間である。《学問の必要がない》という道理はない。かつ、学べば必ず習得せらるる頭脳があるのであるから、どうかして学びたいものだ」
そんな不満を持った浅子も17歳になると、三井家を出ることになります。嫁いだ先は、大阪の豪商・加島屋を営む広岡家。「これでもう娘の人生は安泰だ」と、家族も安心したことでしょう。
ところが、浅子は嫁ぎ先の状況を目の当たりにして、絶句します。夫の広岡信五郎は8歳も年上にもかかわらず、まるで家業に関心がなく、三味線や茶の湯などもっぱら趣味に明け暮れるばかり。
また、浅子が嫁いだのは広岡家の分家である広岡家新宅でしたが、すぐ隣にある本家の暮らしぶりも自然と目に入ってきます。徒歩で歩ける距離でも輿に乗り、外出の際には振袖で着飾る…そんな贅沢ぶりに、浅子は危機感を募らせます。
「かくては永久に家業が繁昌するかどうかは疑わしい。一朝あれば、一家の運命の双肩にになって自ら起たねばならぬ」
夫は仕事に不熱心で、家族は浪費する。このままでは、確実に加島屋はダメになると、浅子は頭を抱えます。そして、まさに浅子の予見通り、加島家は没落していくことになるのです。
絶望せずに「自分ができること」を模索した
加島家が危機的状況に陥ったきっかけは、明治維新による廃藩置県です。藩の借金を新政府が引き受けることになりましたが、新政府の財政状況は厳しく、大名貸しの債権の大半が帳消しにさせられてしまいます。その一方で、公金運用のために諸藩から預かっていた資金については、返済義務が課せられたのです。
商人からしてみればたまったものではありません。もともとのルーズな経営に加えて、借金だけが増えることになった加島屋は、倒産危機を迎えることになります。
浅子からすれば、幸せになるために嫁いだにもかかわらず、いきなりのっぴきならぬ状況に巻き込まれたことになります。「なんで私がこんな目に…」。自分の境遇をそう嘆いてもムリはありません。
しかし、浅子は違いました。この状況を受け入れたうえで「自分は何をできるか」を考えたのです。実は、浅子には「嫁いでよかった」と思えることがひとつありました。それは、大好きな読書が許されていたことです。浅子は読書に明け暮れます。
もはや、これまでのような漠然とした「学問をしたい」気持ちではありません。「加島家の危機を救いたい」。ただ、その一心で、浅子は経営に活かせる本を読み漁ります。自身でこう振り返っています。
「簿記法・算術・その他、商売上に関する書籍を、眠りの時間を割いて、夜毎に独学し、一心にこれが熟達を計りました」
読書を通じていろんな業界について研究した結果、これから新たに伸びそうな事業を浅子は発見します。それは「石炭」でした。
難しい現場にあえて飛び込んでいく
浅子が石炭事業に目をつけたのは、明治2年に鉱山解放令が布告されたからでした。翌年からは鉄道の敷設工事もスタート。蒸気機関車の燃料として、多くの石炭が必要となるはずだと、浅子は確信しました。
「善は急げ」とばかりに、浅子は自ら金策に走り回ります。たりない資金には、みずからの持参金をあてがってまで、費用をかき集めたといいますから、すさまじい行動力です。
明治17年、浅子は潤野炭鉱で採掘される石炭の販売代理権を獲得。名義上こそ、夫の信五郎が社長となっていたもの、実権を握るのは浅子です。その2年後には、炭鉱自体の買収も行い、浅子は鉱山で働く炭鉱夫たちを率いる立場に就きます。日本を代表する女性実業家、広岡浅子の誕生です。
ただ、困ったのが、現場での指揮を誰がとるのかということ。屈強な炭鉱夫たちが働く現場は、男社会そのものです。経験のない浅子が指示をしたところで、耳を傾けてくれるとは思えません。
さらに、炭鉱自体にも問題があり、大きな断層が採掘を阻んで、炭層になかなかたどり着けないこともわかりました。そんな難しい状況のなか、浅子は直接、陣頭指揮を取ることを決意。着物から動きやすい洋装へと着替えます。そして現場に入って、炭鉱夫たちと一緒に働き始めたのです。現場の炭鉱夫たちも、さぞ驚いたことでしょう。
新事業への飽くなきチャレンジを
浅子は炭で真っ黒になりながら、同じ現場で働く炭鉱夫たちに声をかけて叱咤激励しました。もちろん、浅子の挑戦に懸念がなかったわけではありません。なにしろ、危険を伴う地底での作業です。家族は大反対。それでも浅子は「経営する以上は現場に入っていく必要がある」と考え、信念を崩すことはありませんでした。
とはいえ、浅子も内心は不安だったようです。炭鉱夫たちと交じるにあたって、浅子はピストルを懐に忍ばせていました。お守りのようなものでしょう。浅子は悲壮な決意をしながら、炭鉱夫とともに寝泊まりしながら、現場との絆を深めていきます。
そんな身を削った努力の結果、炭鉱は借区83万坪、炭鉱員200人の規模まで拡大。肝心の産出量も明治30年には、前年比から約5倍増し、1万742トンまで急増します。それ以降、収益は順調に伸びていくことになります。
浅子の手がけた新事業は、加島屋を営む広岡家にとって、大成功に終わったといってよいでしょう。その後も浅子は、金融業と保険業に乗り出すなど、新事業にチャレンジし続けて、日本を代表する女性実業家として名を残すことになります。
浅子のサクセスストーリー、その原点にあるのは「危機的な嫁ぎ先を救いたい」情熱でした。「自分には関係ない」「とてもできそうにない」、そんな後ろ向きの気持ちをいっさい持たずに、物事に真摯に取り組んだからこそ、結果につなげることができたのでしょう。
仕事をしていくうえでは、さまざまな人間関係のなかで、不本意な仕事を押しつけられるときもあるかもしれません。そんなときこそ、浅子のような「当事者力」を発揮して、あくまでも前向きに、かつ、主体的に取り組んでみてはいかがでしょうか。人間はピンチなときほど、頭をフル回転させます。思わぬ企画力に自分が驚くかもしれません。浅子の挫けないスタンスは、働くすべての人々にとって、励みになるのではないでしょうか。
文/真山知幸 イラスト/おかやまたかとし