12人の子どもを産みながら、助産師として5万人以上のママにアドバイスしてきたHISAKOさん(47)。みずからきり盛りする「助産院ばぶばぶ」は、大阪から沖縄に移り、再び評判に。大阪弁で相談に応えるYouTubeの登録者数もすでに30万人を超えています。そんな経緯や理由を聞くと、苦労や使命感を背負っていることがわかりました──。
近所のおばちゃんが授業参観に
「沖縄はすべてにおいてのんびりしていて、大家族の家庭が多く、助け合いの精神があり、気にいっています。
先日も、助産院の開院日が子どもたちの授業参観日と重なり行けませんでした。
でも、近所のおばちゃんが“あなたの代わりに行ってきたさあ”と勝手に参観してくれたようで驚きましたね(笑)」
HISAKOさんは前夫との間に10人、現在の夫・MARKさん(61)との間には2人のお子さんがいます。
関西ではカリスマ的な人気を誇り、メディアでも取り上げられていたHISAKOさんがわざわざ移住した理由をこう語ります。
「子宝の島と言われる鹿児島の離島・徳之島へ講演に行ったことがきっかけです。
子どもが多いとはいえ、島社会特有の問題を抱える母子をケアしたいと思い、同じような問題を抱える沖縄で活動することにしました」
HISAKOさんは、現在も沖縄を中心にほぼボランティアで性教育の講演活動などを行っています。
早朝から子どもたちの世話をしつつ奮闘するHISAKOさんが育った大阪の家も、さぞにぎやかな家庭だったのだと思いましたが──。
4人家族の普通の家庭だったが高校まで…
「4人家族の普通のサラリーマン家庭でしたよ(笑)。
女性の体や子どもに興味をもったのは、高校2年生、17歳のときに産婦人科に行ったときでした。
陸上部でハードルの選手だったのですが、練習のし過ぎでホルモンバランスが崩れて、そのときまで初潮を迎えていなかったのです。
医師に“子どもが産めない体になるよ”と言われ、基礎体温をはかるなどして体調の変化がわかるようになり“女はすごいな!”と興味がわきました」
その後、テレビで助産師に密着する番組を観て感動したHISAKOさんは、助産師を目指すことに。
最低でも5人が結婚条件だったが1人目を…
「やはり子どもは、たくさんいたほうが楽しそうなので、“最低でも5人は産んだろか!”と結婚の条件にもしていました」
子だくさんということで、ポンポンと産まれたように誰もが想像すると思いますが、いきなり挫折を味わうことになります。
「1人目の子どもは流産しました。助産師なので、流産のリスクなどは知識としては知っていましたが、まさか自分にそういう不幸が舞い降りるとは思いませんでした。夫にも八つ当たりして、24歳で長男が産まれるまで、乗り越えられませんでしたね。そういう意味で、出産は親のエゴだと思います。
よく子どもが欲しい理由がわからないという相談を受けますが、子どもが欲しいのに理由はいらないと思います。人間は生きているだけでエゴだとも言えますから」
58時間苦労したから、何でも乗り越えられる
分娩には58時間もかかりましたが、“もうええわ!”とは思わなかったそうです。
「これだけ苦しい思いをしたのだから、何でも乗り越えられるだろうと翌年、2人目(長女)を出産しました。3時間くらいで産まれました(笑)。“かわいい! もうひとり!”と思い、3番目の子どもは双子でした」
しかし、またもHISAKOさんに不幸が訪れました。
「双子のうちのひとりが妊娠初期の段階で、お腹のなかで亡くなり、子宮から消えたように見えるバニシングツインという現象が起きました。悲しい出来事でしたが、こういうことがあると知識としてあったので、落ち着いた気持ちで受け入れ、先を見ることにしました」
第1子から3子(次女)まで年子でしたが、第4子(次男)に躊躇(ちゅうちょ)はありませんでした。
「当時の夫は仕事が忙しく、帰りも遅かったのでワンオペ育児で大変でした。でも、大変に大変が増えても大きな違いはないと思い、すぐに4人目をと思いましたが、体調が悪く、前の3人のようにはいきませんでした」
4人目で不妊治療を
そこでHISAKOさんは「不妊治療」を受けることに。
「不妊治療と言っても、詰まっていた卵管を通すようにしただけですが。医師からは“4人目で不妊治療?”と怪訝(けげん)な表情をされました。でも、“子どもが欲しい”という気持ちに人数は関係ないですよね。5人目(三女)を産んだ後は、医師から卵管をくくる、つまり不妊の手術を勧められました。
でも、せっかく子どもを産める体を持っているのに、“もったいない!”と思い、お断りしました」
育児は教科書通りでなくていい
5人のワンオペ育児はさすがにハードだと思いますが、HISAKOさんはどうしていたのでしょうか?
「5人目までは専業主婦をしていましたが忙しすぎて、“育児は教科書通りでなくていい”と思うようになりました。いかに要領よく楽しくできるかを心がけ、買い物の行き帰りの間はずっと授乳タイムにするなど工夫していました。
育児書の通り、授乳するときに、赤ちゃんの目を見ながらしていたら、私の時間はなくなってしまいますよ(笑)。
最近のママさんたちも、育児書や世間の目に縛られすぎで、窮屈な育児をしていると思うので力を抜く部分はあっていいはずです。最低限のエビデンスは大事ですが、工夫はあっていいと思います」
まだ30歳だったHISAKOさんは、しばらく助産師として地域で働いた後、独立して「助産院ばぶばぶ」を開設。
自身の経験に基づいて、ママたちからの相談を受けることになりました。
10人目出産の後に離婚
一方で、「まだまだ、いけるんちゃう?」「もうワンチーム!」という思いから、40歳になるまでに第6子(四女)、第7子(五女)、第8子(三男)、第9子(四男)、第10子(六女)と、サッカーチームができる目前まできました。
ところが、HISAKOさんに再び試練が。当時の夫と離婚することになったのです。
「自宅近くの助産院に子ども6人引き取ってしばらく暮らしましたが、ショックでしばらくは立ち直れませんでした。当時の私は、育児も仕事もこなす“スーパーママ”のようなかっこつけや、おごりもあったので、夫とのすれ違いが生まれたのだと思います。
世のママたちは、パパの家事や育児に小言を言いたくなることが多いと思います。でも、よかれと思ってやっていることなので、お礼を言い、なるべくほめるべきだというのが、私が離婚で学んだことでした」
ショック状態のHISAKOさんを励ましてくれたのは、助産院に通っていた患者さんたちだったそうです。
「私がいつも相談を受けるママさんたちに入れ代わり立ち代わりハグしてもらい、元気になりました。1日に20人から抱きしめてもらったこともありましたね」
子どもたちからの猛反対で11人目を…
その後、現在の夫・MARKさんと一緒になると11人目を目指したHISAKOさん。
「やはりMARKとの子どもを残したいという気持ちが強かったですね。すでに40歳を越えていたので妊娠は難しく、人工授精をして2回の流産をへて授かることができました」
このとき、HISAKOさんにまたも困難が立ちはだかりました。11人目の生命をあきらめる寸前だったそうです。
「思春期に差しかかっていた子どもたちから大反対を受けたのです。悩んだ末に中絶することになり、病院の手術台にまであがりましたが、“やっぱり、やだ!”と点滴をもぎ取り、下半身むき出しのまま廊下に逃げ、大泣きでした。
結局、子どもたちを説得することはできず、最後は“ママは産みますから”と11人目(七女)は強行突破でした。
そんな子どもたちは、12人目(八女)のときには、誰よりも喜んでくれました。どんなにケンカをしても私が母親としてごはんを作り続け、子どもたちの面倒を見続けたことを理解してくれたのだと思います」
13人目も大歓迎!
苦悩が喜びに変わったせいか、13人目も“ウエルカム”だと前向きなHISAKOさん。
「もう47歳なので難しいとは思いますが、奇跡が起こらないとも限りません。助産師として、この年齢ではリスクがあることは承知していますが、来るもの拒まずで、もし授かることがあれば歓迎したいですね。
これからは、世界の出産事情をこの目で確かめて蓄積して、それを世界のママに還元していきたいと思います。
妊娠や育児で苦しんでいるママには、“頑張らんでええ”“適当でええねん”という私の合言葉を送りたいです。肩の力を抜いて、できないことは人に頼り、迷惑をかけたらお返しをすればいいんです」
最近は50歳目前で初産を果たした女優さんもいたので、HISAKOさんだったら「ラグビーチーム」(15人)も夢ではないかもしれません。
PROFILE HISAKOさん
1974年、大阪府生まれ。助産師。看護師。病院勤務などを経て「助産院ばぶばぶ」を開設。2020年に沖縄移転。現在まで12人の子どもをもうける。YouTubeチャンネル「【12人産んだ】助産師HISAKOの子育てチャンネル」でも活躍中。
文/CHANTO WEB NEWS 写真/助産院ばぶばぶ