人は誰一人として同じ人がいないからこそ、気持ちの伝え方や関係性に悩むことがあるのかもしれません。

 

「子どもも大人もしんどくない保育」を目指す、保育士・きしもとたかひろさんが、子どもと関わるなかで出会ったエピソードを元に、その子の気持ちの受け止め方や関わり方への思いを綴ります。

ひとりで過ごす子

学童の中で、基地を作る遊びが流行ったことがあった。

 

部屋の隅にスペースを確保し、数日かけて仲のいい友達と自分たちの基地を作っていく。大人を入れない自分たちだけの空間だ。

 

学童にいるほとんどの時間をそこで過ごし、他の子に呼ばれて遊びに出てもしばらくしたらまた戻る。

 

ある日、誰もいない基地の中でひとりで過ごしている子がいた。他のメンバーは休みだったり先に帰ったりしたようで、その子はひとりで、遊ぶでも宿題をするでもなくポツンといた。

 

ひとりで過ごすにしても、周りに誰かいたら寂しさを紛らわせられるんじゃないかと思い誘ってみたけれど、「ここがいいねん」と言って基地の中を片付けたり散らかしたりぼーっとしたりしていた。

しばらくして、その子は基地から出てきて他の子たちと遊び始めた。やっぱり寂しかったのかなと思っていたら、一度カードゲームをしただけでまた基地に戻っていった。

 

本当に基地みたいになっているなあと思いながら、「心の安全基地」という言葉を思い出す。子どもが育っていくなかで心の拠り所となるような安心できる場所のことだ。

 

身近な養育者を安全基地として感じられると、安心して外の世界に目を向け探索することができて、また、帰ってくる場所としての安心感もあるとされる。

 

主に養育者と乳幼児について語られることが多いけれど、それに限らないんじゃないかとふと思う。

 

その子にとっての基地も、ただの溜まり場ではなく心の安全基地なのかもしれないと思ってみると見え方が変わっていった。

 

その子にとってはただの基地ではなく、心の安全が守られる居場所であり、その場に友達がいなくても、友達を感じられるその空間にいることで安心できるんじゃないか。

 

基地の中で過ごすその子の穏やかな顔を思い浮かべる。

僕はその子を見て、寂しいんじゃないか、と思った。

 

もちろん大好きな友達と遊びたいのに遊べないその気持ちは「寂しい」なのかもしれない。

 

けれど、それを他の子達とワイワイ遊んで紛らわすこともあれば、その友達の存在を感じながらひとりで過ごすのも、その寂しさを埋める大切な時間なんだよね。

 

きっとその安全基地は、親や友達という存在とは限らなくて、読書だったり工作だったりゲームだったり、自分の中にある子もいるだろうな。僕はそれを否定したり壊したりしてないかな。

 

ひとりぽつんといることが寂しくて声をかけてもらうことで安心したり寂しさが紛れたりすることもあると思うし、ひとりで居たい気持ちとひとりが寂しい気持ちが同居していることもきっとある。

 

それを見極めることはできないし、本人にも分からない事かも知れないから、僕はその度に声をかけると思う。

 

ひとりで寂しそうにせず元気だそうぜ!というものではなくて、こっちにも君の居場所があるからね、と受け取ってもらえるような、そんな言葉をかけられたらいいな。

 

できるなら、僕もその子の安全基地であれたらいいけれど、それは僕から申し出るのではなくそう思ってもらえるような関わりを積み重ねた先にあることだから、まずは「ここはイヤや」と思われないように。

 

「ここがいいねん」とまではいかなくても、「ここも悪くないやん」と感じてもらえるような場所になれたらいいな。

 

文・イラスト/きしもとたかひろ