人は誰一人として同じ人がいないからこそ、気持ちの伝え方や関係性に悩むことがあるのかもしれません。

 

「子どもも大人もしんどくない保育」を目指し、SNS発信が話題の保育士・きしもとたかひろさんが、子どもと関わるなかで出会ったエピソードを元に、その子の気持ちの受け止め方や関わり方への思いを綴ります。

色んな友達と遊ぶこと

活発でやんちゃな男子が、普段関わることのない大人しい年下の女の子とオセロをしていた。

 

見慣れない光景を新鮮に感じながら、なにかいいものを見れたような気がして嬉しくなる。

 

ある遊びをきっかけに、普段関わりのない子同士が偶然繋がることがあって、そのまま仲良くなることもあればそれっきりのこともある。

そんな場面をみると、その子たちの人間関係が広がっていくような気がして、小さな感動を覚える。

 

とくに普段関わらない異年齢だったり異性だったりすると、新しいその子の姿が見れる気がして成長したように見えるし、特別な「なにか」が生まれているようにも感じる。

 

すると、その関係を持続させたくなる。もう少し続けてみたら?とか、今日も一緒に遊んでみたら?とか言ってみたり、直接言わなくてもそうなるように仕向けていたりする。

 

そういうときは大抵うまくいかない。こちらの思惑を感じて警戒するのか、そもそも興味がないのか、どちらにしろその場限りの仲で終わり、本人たちは特に何も思っていないだろうに、なぜか僕だけが釣った魚を逃したような残念な気分になる。

 

継続的な人間関係や多様な交友関係というのは大人の勝手な理想で、子どもたちは今そのときに一緒にいて楽しい人と遊ぶし、無理に交友を続けようとはしない。

 

もちろん、継続的な繋がりに安心感を抱いたり、特定の仲間に固執したりすることもあるけれど、それは大人が思うような打算的な考えからではないだろう。

 

そのときに楽しくてそのときに安心できる、それが源にあるように思う。

それならば、その場限りの関係で十分なんじゃないか。なんとなく関わったその子と過ごす時間が楽しかった、というだけでいいのかもしれない。

 

いやむしろ、「そのときなんとなく楽しかった」というだけの方がいいんじゃないかとさえ思う。

 

興奮するほど楽しくなくても、なんとなく不快さを感じずに楽しめるような経験こそ大切なんじゃないか。

 

気のおけない友達たちだけでなく、なんとなく遊んだその子との時間も悪くなかったな、と思えるそんな体験こそ、その子のその後の人生で色んな人たちと関わってみようと思える礎になるんじゃないか。

 

そこに色気を出した大人の声が入ってしまっては、それが雑音となって不快な思い出となるかもしれない。オセロをしている二人の横であれこれ喋っていた自分を思い出し、反省する。

 

そのときの関係はその時のもので、続いても続かなくても、その時間だけでかけがえのないものか。

 

ずっと仲のいい子は、たまたまそれが積み重なっただけかもしれないよね。それなら、それが途切れたとしても残念がることもない。

 

なにかいいものを見れたような、そのときの感覚を思い出す。その瞬間に立ち会えた幸運を感じるだけでよかったんだよね。

 

文・イラスト/きしもとたかひろ