「本来、出会うはずのない人と人の出会いを描くのが好きなんです。それは奇跡的なことだし、光みたいなものだと思うから」と話すのは映画監督の三島有紀子さん。
三島監督の代表作には『Red』『しあわせのパン』『幼な子われらに生まれ』などがある。
最新作である短編映画『よろこびのうた Ode to Joy』(DIVOC-12内の1作品/10月1日公開)には、老いることへの不安、出会いと別れ、そして生きることのよろこびが詰まっている。
今回、作品とシンクロする三島監督の思いについて話を聞いた。
今日ぐらいハーゲンダッツを買ってもいいかな
ソニー・ピクチャーズエンタテインメントによる短編映画プロジェクト『DIVOC-12』は、12人の映画監督の短編映画の集合体。プロジェクトを牽引する三島さんが「共有」をテーマに監督をつとめた作品は『よろこびのうた Ode to Joy』。
わずかな年金とポスティングのアルバイトで細々と暮らしている75歳の主人公・冬海(富司純子)がある日、偶然、砂浜で青年・歩(藤原季節)に出会うことから始まる物語だ。
作品の中では、年老いた冬海の年金暮らしではなかなか叶わないリアルな欲望が映し出されている。それを象徴するのが『ハーゲンダッツ、金気にしないで買えるって幸せだな』というセリフ。
私たちが高齢者になったとき、ハーゲンダッツの値段を気にせず買えるだろうか。そんなことを考えると、不確かな未来や老いについて不安にならざるを得ない。
「最近だとコロナウイルスの影響によるいろんな不安がありますが、コロナの後そう遠くない未来に、格差社会や貧困などの問題が色濃く出てくる、と思っています。
さきほどのセリフは、ご褒美のためにさえお金を思うように使えないという状況を想像して考えました。そんななかで感じるささやかな『よろこび』って何だろうな、と。
私にとっても、ハーゲンダッツってなかなか気軽に買えない存在。アイスがないと生きていけない訳ではありませんが、人生には『よろこび』が必要だと思うんです。
辛いことがあったときに『今日くらいいいかな』ってやっと買えるもの、つまり小さなエンターテイメントなんです。その時間を共有できる人がいるってことが、またいいと思うんですよ」
昨日できたことが、今日できなくなる不安
「でも、こわいですよね。老いていくことは」三島さんはぽつりとそう呟いた。
「3か月ほど前、転倒して右肩を骨折したんです。思うように動かない身体で、このまま仕事ができなくなって野垂れ死ぬかもしれないと思ったらすごく不安で。
身体の痛みって、心の痛みもそうですがエネルギーをどんどん下げていく。仕事もできないまま、この先部屋でひとりで死ぬのかもって、何度も思いました。大げさですかね(笑)
小説『しあわせのパン』で記したのですが、老いって、昨日できたことが今日できなくなることなのかもしれません。私の場合は怪我をしたことで、できなくなることに対する恐れを感じました」
老い、怪我、病気…そんな状況に陥っても、人はもがきながら生きていく。
「怪我の治療中に、主治医の絶対安静を破って映画を撮ったのですが、夢中になっているときは全然、痛みがないんです。でも、仕事スイッチが抜けたとたん激痛で。
ペットボトルの蓋さえ開けられない。もともと甘えるのが苦手な性格なのですが、たくましく生きていくために、そんなことも言ってられない状況。
あとはうちの父親が言っていた三島家の家訓『辛いときこそおいしいものを食べよ』を奮発して実践しています。
おいしいものを食べると心まで貧しくならないし、生きていくためのエネルギーになると思うから」
小さな「よろこび」が世界に色をつけていく
「日常の中のささやかなよろこびって、おいしいものを食べることもそうなんですけど、たとえばハーゲンダッツを買うという小さな出来事かもしれないし、誰かとの出会いかもしれません。
映画『よろこびのうた』では、あえて色のない世界を表現しているのですが、誰にでも、世界に色がつく瞬間があるんじゃないかなって、そう思いながら撮りました。
私自身も、どんな状況でも人はよろこびを見いだせる、と信じたい気持ちもあります」
三島さんは、ふとコロナ禍で出会った近所に住む高齢の女性のことを教えてくれた。
「最初は挨拶をする程度だったご婦人がいて。コロナの状況もあったので、何かお手伝いできることはないですか?と声をかけたら、逆に私のことを気にかけてくださったんです。
『生きているといろいろ大変でございましょう?いつでも、お茶しに来てくださいね』、という言葉は今でも忘れられません。
自分のなかで思い悩んだときの最後の砦になっていたし、人生の先輩であるその方とお茶をするのが楽しみのひとつでもありました」
その後、2週間ほど撮影で家を空けて帰宅後に、別の階に住んでいるその方のお姉様から、彼女が亡くなったことを知る。
三島さんは「今度、彼女のお姉さんにお花とクッキーを持って行こうと思っています」といってさみしそうに微笑んだ。
人生の最後にマルをつける——死への思い
自分自身が死ぬとき、誰かが死ぬとき、私たちはどんなことを思うだろうか。
「この映画を撮る前、インドのボランティアの方が、死にかけている路上生活者を連れてきて、その人が息絶えるまで抱っこしたり背中をさすってあげる、というのを聞いて。
知らない人に抱かれて死んでいくのだけれど、とても穏やかに見えるそうです。このエピソードは、今回の作品の脚本を書くうえで、大きなインスピレーションとなりました。
今、改めて思うのは、死ぬときに誰かがそばにいてくれて、『この人はちゃんと生き抜きました』ってひとりでも証人になってくれたら、安心するのかもしれません。
看取るという行為は、その人の尊厳を尊重するというか、ひとりの人の人生の最後にマルをつけてあげることかもしれないと思いました。
そう考えると、自分が死ぬときそばにいて欲しいのは、パートナーや家族じゃなくてもいいのかもしれません。その時たまたま隣に居合わせた人でもいい。
もしそれが赤ちゃんだったとしても。もちろん赤ちゃんは『がんばって生きたね』なんて言ってくれないだろうけど、その小さな手に、生命に触れていられたら。
コロナ禍がなければ、かっこつけて、ひとりでどこか…例えば日だまりの電車の中で死んでいきたいなどと言っていたと思います(笑)」
誰かがそばにいてくれて、一瞬でも同じよろこびを共有することが、この不確定な時代を生きる私たちを安心させてくれるのではないだろうか。
そして、どう死にたいかを考えることで、どう生きたいかに気づくのかもしれない。
PROFILE 三島有紀子さん
取材・文・撮影/桜木奈央子 取材協力/Ginza Sony Park(建て替え再建のため一時閉園中)