人は誰一人として同じ人がいないからこそ、気持ちの伝え方や関係性に悩むことがあるのかもしれません。

 

「子どもも大人もしんどくない保育」を目指し、SNS発信が話題の保育士・きしもとたかひろさんが、子どもと関わるなかで出会ったエピソードを元に、その子の気持ちの受け止め方や関わり方への思いを綴ります。

「汚い言葉をつかう子と大人の思い」

乱暴な言葉を使ったり、汚い言葉を使う子をむやみに怒りたくないという気持ちがある。

 

そりゃあんまり使ってほしくはないけれど、そういう言葉に興味を持つこと自体は自然のことだし、それを口に出してすっきりすることもきっとあるだろうから、誰かに向けた言葉でないのなら目をつぶりたい。

 

けれど、周りにいる子たちがそれを聞いて不快な思いをするのなら、見て見ぬふりをするわけにもいかない。

どうしても我慢できなくて吐き出すこともあれば、「そういう言葉を使いたいだけ」みたいなこともあるよね、という話題になった。

 

「一方的な価値観で悪いと決めつけたり言葉自体を咎めるというよりは、その言葉を聞いて不快に感じたり傷つく人がいるという視点を子どもに伝えて、別の表現を一緒に見つけられないだろうか」と同僚が言った。

 

周りの子がどんな風に受け取るかを本人が知るきっかけになるのはいいかもしれない。別の表現を、というのもその子の思いを蔑ろにしないように配慮されている。

 

「そういう言葉を使いたいだけ」の子には、禁止されているだけだと感じるかもしれない。そういえば、そもそも乱暴な言葉を使わないのはその子のためなのだろうか、それとも周りの子たちのためなのだろうか。

そんなことを考えていると、別の同僚が「自分が損するで、というような声のかけ方もしますね」と言う。

 

なるほど確かに、汚い言葉を使ってその子自身が損するというのは実際にある。嫌われたり、下品だと思われたりするかもしれない。

 

また、「そういう言葉を使いたいだけ」の子たちならどう感じるだろうと考えてみる。

 

「は?別に嫌われてええし!」となる気もする。損するかどうかがその子自身の問題なら、それで言葉づかいを改めるかもその子が決めることだ。自己責任という意味ではなく。

 

それでもやっぱり、その言葉を聞いて不快に思ったり傷ついたりする子たちがいるなら看過するわけにはいかない。

 

それなら「まわりで聞いてる子が不快に思うからそんな言葉を使わないで」と言えばいいような気がするけれど、それは周りの子達の思いを、「そんな言葉を使わないでほしい」という大人の意図を乗せて利用しているだけの気もする。

 

自分の言葉が周りからどう思われるかを知ることは大切だけれど、それをその言葉をやめさせる「正しい理由」にしてしまうのは、一歩間違えばただの言論封殺になってしまう恐れもある。

 

そんな話をしていたら、また別の同僚が「ひとつの言葉について本人含めた周りに起きる影響を多角的に捉えられるようにしたいですね」と言った。

その言葉が間違っているかどうかではなくて、その言葉で起きることを色んな立場から捉えてそれぞれに必要なフォローをしていく。

 

その言葉を聞いて嫌な気持ちになる子がいれば、言った子に代わりに伝えたり、その言葉が耳に入らないような配慮ができるかもしれない。

 

言った子がその言葉でしか今の気持ちを表せられないのなら、それを「正しい理由」でやめさせようとはせずに、受け止めたうえで余裕があれば別の表現方法を一緒に考えられたらいい。

 

「ちょっと、その言葉はイヤかな」と声をかけるなら、「ぼくが」と言えばいいんだよな。その言葉を僕がどう感じるかを伝えたらいいんだ。

 

ただそれであっさりとやめられちゃうと、それはそれで無理やりやめさせてしまったかもしれないと心配になる。子どもたちも僕に対して「その言い方イヤやわ」と言える関係でいれたらいいな。

 

「「その言い方イヤやわ」って言い方イヤやわ!」と、批判の応酬にならないように「そうか、君がイヤな気分になるのならやめておこうかな」って思ってもらえるような関係でありたいな。

 

文・イラスト/きしもとたかひろ