「これまでにない充足感や達成感を得た大会でした」。東京五輪をそう振り返るクレー射撃の中山由起枝選手(42)。シドニー(2000年)、北京(’08年)、ロンドン(’12年)、リオデジャネイロ(’16年)、東京と五輪出場を続け、今回で国際大会出場などの第一線を退くことになりました。
惜しくもメダルには届きませんでしたが、清々しい気持ちでいるいのは、さまざまな課題や苦労を乗り越えてきたから。
20年以上の競技生活のなかでの苦楽を、朗らかに語ってもらいました。
とても楽しむことができた東京五輪
「五輪が終わり2週間の休みが終わってからは、会社(日立建機)の広報・宣伝活動の一貫で、パネリスト出演などの講演会活動や、取材対応などをしています。
五輪ではさまざまな困難を乗り越えて、これ以上ないパフォーマンスで楽しむことができたので、とても満足しています。
何より夫と一緒に夫婦で出場することができ、ベストスコアも出したので、結果に後悔はありません」
五輪後も夫とは“別居婚”
クレー射撃では今大会から、男女が交互に標的を狙う混合トラップ(ミックス)が新種目として採用されることに。
中山選手は昨年3月に結婚したばかりの夫・大山重隆選手(39)と出場。第5位に入賞しました。
しかし競技の性質上、“別居婚”がいまだに続いているそうです。
「日本は銃器に対する厳しい規制があり、競技に使う散弾銃も保管や移動に対するこまかいルールや手続きがあります。
住居を替えると、所属協会や届けを出す警察署も替えることになり手続きが煩雑になるので、私は前から住んでいる茨城、夫は埼玉のままで、“週末婚”の状態が続いています。
交際期間も長く、射撃場では練習で毎日会いますし、離れ離れで暮らすのが基本だったので、ほどよい距離感になっていると思います。同居は来年以降を考えています」
シングルマザーとして娘を育てた
そんな中山選手は実は再婚で長年、シングルマザーとして競技のかたわら、長女の芽生さん(19)を育ててきました。
「やはり娘のことが第一だったので、何度も話し合い、結婚するのは高校を卒業してからということにしていました。
そんな娘と私を大切に思ってくれていた夫と、五輪に出場できたことは何よりもうれしいことでした」
ソフトボールでキャッチャーとして活躍していた中山選手は、高校卒業後に射撃に転向して、日立建機クレー射撃部に所属。
五輪初出場だったシドニー大会の翌’01年に一度、競技から離れるも、結婚、出産、離婚を経て、現役復帰をして競技を続けてきました。
「当時の日本では、“ママアスリート”という言葉すらないような状況で、娘が小さかったアテネ大会(’04年)の出場には、間に合いませんでした」
“普通のお母さんになって”と懇願され
「特に娘が小学校低学年くらいまでは、“普通のお母さんになって”と言われるほど、かなり寂しい思いをさせていました。
遠征や合宿に行くときは、娘からTシャツがヨレヨレになるほど泣きながら引っ張られて、後ろ髪を引かれる思いでした」
そんな娘さんを見て競技を続けるか迷ったこともある中山選手。
踏み止まったのは、「射撃を辞めると生活基盤がなくなる」からだったそう。
「だからこそ中途半端な思いではいけない。メダルや賞状を取って、ママも頑張っているんだぞというところを、娘に見せる気持ちで全力で臨んでいました。
幸い私が家を空けるときは私の両親に面倒を見てもらい、練習する射撃場の理解もあり、娘を連れて行くこともできました。
所属の日立建機からも家族のようなサポートをしてもらいました」
メダルを獲ってほしい気持ちと寂しい気持ちを…
「北京五輪で4位だったとき娘は6歳でしたが、次の“ロンドン(大会)が終わったら辞めてね”と言われたのが印象的でした。
つまり、次はメダルをとってほしい悔しい気持ちと、でも寂しいからそれ以上は続けないでほしいという葛藤があったのだと思います。
芽生は私が練習中に射撃場で、夏休みの課題や高校受験の勉強をすることも当たり前になり、誰よりも射撃のルールに詳しくなってしまいました(笑)。
高校生になったころには、競技への理解が深まり、いざというときに書いてくれる応援の手紙はもちろん、さらに歌を歌ってくれたこともありました。
今回の五輪でも、“唯一無二の存在。感動をたくさんもらった”と言ってもらい、今では“親友親子”のようになりました。
射撃にも興味をもち、免許を取りたいと、すでに銃刀法の勉強も始めています」
大学院での研究も始めた
芽生さんが高校に入学すると同時に、中山選手はさらなる課題に挑戦することに。競技を続けながら、順天堂大学大学院での研究を始めることになりました。
「当時は、自分が東京五輪に出場できる保証はありませんでしたし、将来的には指導者になりたいというビジョンがあったので、コーチングやスポーツマネジメントの勉強をしようと思いました。
大学院の課題をこなしながら練習をして国際大会にも出場し、家事をすることは大変でした。
朝5時半に起きて、娘の弁当を作るなど家事をしてから練習に行きその後、夜間の大学院に通い、終電で帰宅するような生活をしていました。
睡眠時間も減りましたが、これまでの子育てと競技の両立の経験もあり、限られた時間だと集中できるのか、何とか踏ん張ることができ、修士号を取得できました」
新型コロナ以上の“大病”を
その後、東京五輪出場を決めた中山選手ですが、実は新型コロナウイルスによる延期以上の“試練”が待ち構えていました。
「2020年の初めころに、脳の運動神経の異常が見つかり、手術をすることになりました。
長年の標的を撃ち落とすまでの反復練習が原因となり、最後には引き金が引けなくなってしまいました。
練習のしすぎなのか、改善方法を見つけるために、これまでの経験から引き出しをすべて探り、試しましたが八方ふさがりに……。
頭蓋骨にドリルで穴をあける手術には迷いました。医師からは手術をしても、完全に元の状態に戻ることはないという宣告も受けていました。
実は今も、箸がなかなかうまく使えず、字をすらすら書くことも難しいです。リスクのある手術に娘も夫も家族全員が反対で代表辞退も考えました。
でも、母の“後悔しないように”と言ってくれた言葉に、私の後悔は五輪をあきらめることだと思い、手術を決心しました」
手術後は呂律も回らず…
五輪を1年後に控えてのリハビリも過酷なものだった中山選手。
「手術直後は、呂律も回らないほどでした。徐々に体が動くようになりましたが、私の手術のことは限られた人しか知りませんでした。
だから周囲から心配されたり、“調子が悪いのでは?”という指摘も受けることもあったので、心を一定に保つことが大変な時期でした」
そんなときに支えとなったのはやはり、ひとり娘と夫 ——。
「娘は大学に入り実家を出ていましたが、買い物や外出が私のリハビリになるので、そういった日常生活につき合ってくれました。
本番直前もワンワン泣きながら、お互いの気持ちを腹を割って話し合い、全力で応援することを約束してくれました。
夫は、静かに見守ってくれていましたね。何も言わず肩をポンポンとたたいてくれたり、射撃の練習中にいつの間にか、後ろに立っていてくれたり……。
そんななか、昨年は手術後のリハビリやコロナ禍で国際大会の出場はかないませんでした。
今年に入ってからも試合に1度も出場することなく、五輪のリハ大会のみで、五輪本番に臨むことになりました。
そんな状況で最高のパフォーマンスができたので、これ以上ない達成感を感じることができたのです」
夫と指導者、人材育成に携わっていきたい
射撃選手としてトップを走り続けてきた24年間を振り返りながらも、中山選手は次なる“狙い”も考えています。
「いずれは夫とともに、クレー射撃の普及や指導者の道に進み、射撃界に貢献していけたらと思っています。
また私は、子どもをもつアスリートや将来、子どもをもつことを希望するアスリートや監督、コーチへの支援や情報発信活動を行う『MAN』(ママ・アスリート・ネットワーク)という一般社団法人の理事も務めています。
パパアスリートという言葉はないのに、ママアスリートがフォーカスされることに違和感があるのは理解できます。
ただ、出産を経て競技を続けることは大変なことで、日本ではそういうアスリートが少ないことは確かです。
彼女たちが活躍できるようなサポート活動も積極的にしていきたいと思います」
PROFILE 中山由起枝さん
1979年、茨城県生まれ。高校卒業後、日立建機クレー射撃部に所属。順天堂大学大学院スポーツ健康科学研究科修了。シドニー、北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京で五輪代表。アジア大会(2010年)の女子クレー・トラップ個人で日本人初の金メダル。
写真提供/中山由起枝選手、日立建機