人は誰一人として同じ人がいないからこそ、気持ちの伝え方や関係性に悩むことがあるのかもしれません。
「子どもも大人もしんどくない保育」を目指し、SNS発信が話題の保育士・きしもとたかひろさんが、子どもと関わるなかで出会ったエピソードを元に、その子の気持ちの受け止め方や関わり方への思いを綴ります。
「自己主張が強い子」
子どもが何人かで遊んでいたり、仲のいいグループになると、その中心となるようなリーダーシップのある子、言い方を変えると、自己主張の強い子がいる。
少し古い呼び方だと、ガキ大将というのだろうか。その子があそびを決めて、友達に「あれしてこれして」と要求する。
少し乱暴な口調の子もいれば、そつなくこなすカリスマっぽい子もいるし、少しツンケンしたような雰囲気の子もいる。どちらにしても、自分の思いのままに場を作っていく…ように見える。
そんな子を目にしたときに「あんまに好き勝手さしたらあかんで」とか「一回痛い目見ないとあかんで」と、「その子のため」という文脈で大人が言っているのを、保育や教育の現場で耳にすることがある。
そこまで言わないにしても、そういった場面を見て、「自分勝手に振る舞ってるなあ」とモヤっとすることが、正直なところ僕にもある。
順番を抜かされても言い出せないような気の弱い子が言いなりになっている場面を見ると、その自己主張の強い子が傍若無人に振る舞っているように見えてしまう。
すると、自分のなかにある感情がふつふつと湧いてくる。「懲らしめないと」と。
健気についていく子たちがいじらしく見えて、助けてあげないとなんて思う。自分の思いのままに振る舞うその子を見て、「このままわがままに育ったらいつか痛い目をみる」なんて根拠のない心配をする。
けれど、冷静にその子どもたちを見てみると、それは大人の傲慢な考えなんじゃないかと気づく。
押しが強くて断れない子もいるけれど、その子のことが好きだったり憧れだったりしてついていく子も多いのだ。
それを横で見ているぼくが勝手に「一人の子が我が物顔で振る舞い、他の子達が従わされている」というような見方をしていることがある。
「その子のために」というのは建前で、ただシンプルに「自分の思い通りに振る舞うその子が気に食わないだけ」ということが少なくないんじゃないか。つまりそれは、ただ自分がすっきりしたいだけなんじゃないか。
言いなりになってしまって自分の意見を言えない子がいたときに、僕がやるべきことは、自己主張が強い子の鼻をへし折ることなんだろうか。
自分の意見が言えなくてしんどくなっている子がいるのなら、その思いに耳を傾けることを忘れてはいないだろうか。
大人でも、自己主張が強い人がいれば、それについて行くだけの人もいる。それがツラい関係の場合もあれば、深い信頼関係である場合もある。子ども同士でも同じで、いい関係の場合もあればしんどい関係の時もあるだろう。
そしてそれは、その子たちの関係であり、その子たちにしか分かりえない。
もちろん、意見を通すために意地悪したり乱暴するようなことがあれば看過できないけれど、その時でも悪者をやっつけるがごとく過度に懲らしめようとしてしまいそうになる。
実際に社会には、声を上げられない人を従わせて傍若無人に振る舞う人たちはいる。僕もそういう目にあってきたし、同じように辛いツラい目にあっている人が多くいることも知っている。
だからこそ「傍若無人に振る舞う人」を許せない自分がいることを自覚しておかなければいけないのだと思う。
「そういう人」の片鱗を子どもの行動に見たときにどう向き合うのか。その子と向き合う前に、まずは自分と向き合わなければいけないのかもしれない。
僕がやろうとしていることは、本当にその子たちのためなのだろうかって。