「その日は朝まで眠れなくて起きていたら、午前4時ごろ、ベランダの窓から女の人の泣き声が聞こえてきました。どこから聞こえているかはわかりません。
聞いているうちにそれがだんだん友達の泣き声に聞こえてきて、しばらく聞いていると、自分の泣き声にも聞こえてきて……。
私が泣いているのか?って一瞬思ったりもしました。それは、たくさんの人の泣き声にも聞こえたし、大地というか地球の泣き声にも聞こえました。
ああ、いろんな人が今、泣きたいんだなって。
私は、その気持ちに寄り添いたいなって思いました。明け方のベランダで、背中をさするような気持ちで、その泣き声がおさまるまで聞いていました」
映画監督の三島有紀子さんは、2020年4月22日の明け方に経験したできごとを、そう静かに話してくれました。
現在、三島監督が制作に取り組んでいる映画『組曲 うつしだすこと』はコロナ禍での役者たちの暮らしをリモートで撮影し、物語に組み上げていく作品。
三島さんが実際に経験したこの明け方のできごとを起点として、ワークショップで出会った役者たちなどさまざまな人との「化学反応」を映し出す映画です。
現時点(2021年9月)で撮影はほぼ終了していて、これから編集や心象風景の撮影、楽曲制作が行われます。
その資金がクラウドファンデイングで集められているということもあり「みんなで作品を完成させていく」という側面が強いのがこの映画の特徴ともいえます。
「このコロナ禍で、悲しみがない人はほぼいないと思う」——
三島さんのこの言葉どおり、会いたい人に会えない、行きたい場所に行けない、仕事がうまくいかない・仕事を失ったなど、人それぞれに抱えているものがあるのではないでしょうか。
「みんなそれぞれ、泣きたくなるような思いを抱えながら今を生きていると思います。
悲しみ、怒り……でも、その中でちょっとした喜びを見つけた人もいるかもしれません。そんなさまざまな感情に寄り添うように映画を撮ってみたいと思いました」
三島さんがそう語る穏やかな声は、ぼんやりとした不安と向き合う心細さにも、明るい未来を彷彿とさせるような希望にも聞こえました。
阪神淡路大震災の現場での覚悟
時は大きく遡り、三島さんの幼少期——。
父親との映画館通いでたくさんの映画に出会い、子どものころからすでに映画監督になりたいと考えていました。
初めての映画体験は、近所の名画座で鑑賞した『赤い靴』(監督:マイケル・パウエル / エメリック・プレスバーガー 1948年制作)。当時4歳の三島さんにとって、主人公が自ら死を選ぶという結末のこの映画の衝撃はかなり大きかったと想像できます。
その後も、中学校の文集で「映画監督になりたい」と将来の夢を小さな文字で綴り、高校では文化祭の舞台の脚本を書きます。
大学では自主映画制作に没頭し、卒業後「人間をもっと知りたい」という思いからドキュメンタリーを撮ることに興味を抱いてNHKに就職。三島さんはディレクターとしてテレビ番組の映像制作に携わります。
そして1995年1月、三島さんは阪神淡路大震災の現場にいました。
「当時、NHK大阪支局に配属されていたので、震災直後の現場に入りました。道路から行けない現場には船で行ったこともありました。
混乱する現場で、映像を撮るよりも水を運ぶべきじゃないかと葛藤することもありましたが、被災者の『僕たちは被災して家も仕事も失った。あなたは帰る家も仕事もある。どうかこの現状を発信することに集中してほしい』という言葉で、私は伝えよう、と覚悟が決まりました」
明日がないかもしれないなら、映画を撮りたい
こうして現場の声や状況を伝える中で、三島さんの気持ちは徐々に変化していきます。
「被災地を撮影していく中で、社会の縮図というか、社会がどうできあがっていくのかを目の当たりにしたような気がします。
地震直後 何もない場所に、すべてを失った方たちが家族ごとにテントを立てていきました。やがて、そこに表札ができ、人々は少しずつ生活の基盤を作っていきます。
そうして限られたスペースで暮らし、配布された食料を食べて皆さんが暮らしているのを見ながら、ああ、人と人が一緒に生きていくことはこういうことかと思いました。人は、限られたものを分け合って生きていくものなんだな、と。
震災直後のなにもない状態で人びとに必要なのは、食べ物と寝る場所でしたが、そこに生活の基盤ができていくと、ある種の心の逃げ場所が必要になってきます。それは笑いや音楽や映画など文化的なものです。
心の逃げ場所というか、心の拠り所が必要になってくるんですね。
また、当たり前のことですが、毎日どこかで人が死んでいるんだなと実感しました。
誰しも、こうなりたいとかこうしたいとか小さな望みを持ちながら生きていますが、そんな誰かが一瞬で亡くなることがある。小さな望みすら叶えられないまま命が終わることもある。
明日はないかもしれない——。
そう考えたら、私はこのまま納得して死ねないなと思ったんです。やっぱり映画を撮りたいって」
三島さんは11年働いたNHKを辞め、映画監督という道に大きく舵を切ります。30歳をすぎたころのことです。
助監督として撮影現場に出入りするようになるも、最初は右も左もわからず決して順風満帆ではなかったそうですが、もがきながらも一歩一歩足を進めました。
監督として映画制作に携わるようになり、『しあわせのパン』(2012年)や『縫い裁つ人』(2015年)、『幼な子われらに生まれ』(2017年)など、次々と代表作となる映画を生み出します。
そして、大きな話題を呼んだ『Red』(2020年)の公開直後、世界はコロナウイルスの影響に巻き込まれていきます。
コロナ禍の役者たちの暮らしを映画に映し出す
コロナ禍によりたくさんの人の日常が変わりましたが、三島さんが身を置く映画界も同様に一変しました。
作品を発表する機会が失われ、現場に出られない日々が続き、中止になった映画制作もあるそうです。
「役者や映画の制作に関わる人たちもそうですが、どんな人でも同じではないでしょうか。コロナ禍で少なからず、生活が変わった人がほとんどだと思います。
2020年から今も、私たちは世界中で同じ恐怖と不安を共有しています。こんなに世界中の人が同じ問題や感情を共有したことって、きっと今までなかったですよね。
だからこそ撮っておきたい。
記録しておかないと、その時の気持ちって人間はすぐに忘れてしまうから、残したいと思いました」
「この映画には、19人の役者たちとその家族、友人が撮影に参加しています。
2020年の緊急事態宣言のときの、当時の暮らしぶりを役者たち自身に撮影してもらいました。撮影は彼らのスマートフォン。
日常や感情を引き出すために、私はリモートで彼らがどんな物語をつくりたいかに耳を傾け、だったらこう撮りましょうとか、こんなところを撮ってほしいですと伝え、撮影を進めました。
スマートフォンでの撮影が映画のスクリーンにどう映るのかは初めての試みですが、コロナ禍で人が集まって撮影できないという当時の状況を伝えることにもなるので、あえてこの方法を選択しています」
こうして真摯に撮影に取り組み、物語を組み上げる『組曲 うつしだすこと』は、役者たちのドキュメンタリーという側面を持ちつつも、役者たちが自分の日常を熱演する劇映画でもあるのかもしれません。
共通のシチュエーションは「夜明けの泣き声」
「映画『組曲 うつしだすこと』では、さきほどお話した明け方のできごとを役者さんたちに追体験してもらうという共通のシチュエーションを設けています。この泣き声は、女優の松本まりかさんに演じてもらっています。
イヤホンで役者さんたちに聞いてもらって、そのときの反応や素直な気持ちを一発撮りする。ここだけはドキュメンタリーというか、どんな感情が出てくるのか、化学反応を見たいのもあります。
この映画を撮り始めたときは、公開するころには世の中がもう少し落ち着いてるかもね、と話していました。実際、リモート撮影が終わって、夏ごろにその映像を見ながら、こんなときがあったよねという少し楽観的な雰囲気もあったと思います。
でも、公開を目指している来年が、世の中がどんな状況で、お客さんにどんな気持ちで見てもらえるのか、もうそのときにならないとわかりません。
だから、結末でなにを伝えたいかをあまり考えないで映像をつなげたいと思っています。
そこから自分がなにを見つけるのか。そして、人がなにを見つけていくのか。私も自分自身を見つめながら、映画を完成させていきたいと思います」
映画のラストカットは、夜明けの風景。カメラマンの今井孝博さんが撮影を担当しています。
「彼がインスタで『それでも世界は美しい』というキャプションをつけて風景写真を投稿していたのを見て、この人なら、と思って撮影をお願いしました。
緊急事態宣言中だったのでひとりで撮ってきてもらったんです。最初に撮影してくださった映像も素敵な夜明けだったんですけど、私は暗闇から始まる夜明けがいいな、と。
その時はまだノーギャラでお願いしている段階なのに、撮り直しをお願いしてしまって…今井さん、3秒くらい絶句したあと『わかりました。もう一度撮影してきます』って(笑)本当にありがとうございます!」
今回、三島さんのお話を聞いて、映画『組曲 うつしだすこと』は役者さんたちの物語である一方で、私たちひとりひとりの物語でもあるのではないかと思いました。私たちも、そこからなにかを見つけることができるのかもしれません。
そして、夜の暗闇に光が差し込み、少しずつ明るくなっていく空は、コロナ禍でもがく人々が見つけていく希望の光なのかもしれないと感じました。
PROFILE 三島有紀子さん
取材・撮影・文/桜木奈央子 取材協力/ポレポレ東中野