人は誰一人として同じ人がいないからこそ、気持ちの伝え方や関係性に悩むことがあるのかもしれません。

 

「子どもも大人もしんどくない保育」を目指し、SNS発信が話題の保育士・きしもとたかひろさんが、子どもと関わるなかで出会ったエピソードを元に、その子の気持ちの受け止め方や関わり方への思いを綴ります。

「怒っている顔」

滑り台の順番を抜かされて怒っていた。怒ってはいるけれど憤慨しているわけではない。「先に並んでたのに!」と悔しそうだけれど、自分で怒りを抑えているようだ。

 

そのあとも並ぶたびに抜かされているので、本人よりも僕のほうが我慢できなくなってくる。ひと言声をかけようかと思ったら、それを察したのか「怒らないでね」と先に釘を刺された。

大きめの遊具だと、高学年くらいの子たちが鬼ごっこをしていることがある。乳幼児が遊んでいる遊具でもお構いなしに走り回っているので、ヒヤリとする。

 

遊んでいる子どもたちは怪我をするつもりも、もちろん誰かに怪我をさせるつもりもないだろう。

 

僕は小学生の子どもたちと関わる職業柄、子どもたちなりに「気をつけて」遊んでいるのは分かるつもりだけれど、その分「気をつけていても起きるのが事故」だというのも知っている。

 

わざわざ駆け寄って止めに入ったりはしないけれど、近くを通って危ないなと思ったら「小さい子もいるし危ないから走るのはやめといたら?」と声をかける。

 

「あ、すみません」と素直に聞き入れてくれるので、やっぱり気をつけて遊んでいだんだろうなと少し申し訳ない気持ちにはなる。

 

不服そうにしている子も中にはいるけれど、遊んでいる子どもたちにとっては口うるさい嫌な大人だろうから仕方がない。

 

そんな風に声をかけた姿が、側から見ていたその子にとっては怖かったらしい。怒ったわけではないけれど、真剣な表情だと威圧感があるのかもしれない。悪気はなくても怖がらせてしまうことはある。

 

自身が順番を抜かされたりぶつかられたりしているのに、僕が怒る姿は見たくないようだ。

 

悪いことは指摘して、嫌なことをされたらやり返して、それを見てスッキリしたいという子もいる。

 

かたや自分が嫌な気持ちになっていても、それをやめてもらうためであっても、怒っている姿を見るのを嫌がる子もいるのだ。

 

その子との別の場面を思い出す。駐車場でふざけていたり、道路で急に走り出したときに、危ないからと注意すると、決まって「怒らないでよ!」と泣いていた。

 

それは例えば、車の陰に隠れて驚かそうとしたり、追いついてみてよと走り出したり、そのほとんどは僕を楽しませようとしていることで、それに僕も気づいていていながら、やっぱり強めの口調になってしまって、その度にごめんねって思う。

 

「守るためには鬼にもならないと」なんてカッコつけた言い方をしたとしても、その子からはただの「怒る人」に見えているのなら、と思うと悲しくなる。

 

その悲しさが、半分エゴなのも自分では気づいている。

今でも、たびたび「あのお兄ちゃんたち走ってて危ないけど、怒ったりしないでね」と、遊具のそばで見守っている僕に近づいてきて声をかけてくる。

 

それは、僕が怒ることを制しているというよりは、「楽しいままで過ごしたいからね」って伝えてくれているみたいに。

 

「どんな風に言ったらいいかな?」と尋ねると、「優しく言ったら?」とアドバイスをくれる。

 

こんな風に?と言いながら、わざと怖い顔をして見ると、笑いながら「ちゃうわ!こわいわ!」と怒られた。難しいなあと言いながら今度はわざとらしく笑顔を作ってみる。

 

穏やかに楽しく過ごす。嫌なことがあったり、悪いことをされたり困ることがあっても、楽しく過ごす。

 

危ないことを見過ごしたり、悪いことに目をつぶってねって言ってるわけじゃない。怖いから、不快だからってだけじゃない。

 

ただ、一緒に過ごすこの楽しい時間に鬼は出てこないでおくれって、そう言われているような気がした。

 

文・イラスト/きしもとたかひろ