「この前、7歳の息子が当たり前のことを言うように言ったんです。『愛ちゃんがダウン症でよかったよねー』って。『どうして?』と聞いたら『だってさ、愛ちゃんずーっと赤ちゃんみたいで可愛いもん』って。

 

愛子がダウン症でよかったか?と聞かれたら、私はすぐに『よかった!』とは答えられないかもしれません。でも愛子は愛子でよかった。その想いだけは、真っ直ぐ、持っています」

ダウン症を持つ愛子ちゃん

時は少し遡り、2019年11月29日の深夜3時──。

 

産まれたばかりの愛子ちゃんが救急車に乗せられた光景を荒絵里さん(38)は、今もはっきりと覚えています。「赤ちゃんの呼吸が苦しそうだから、大きな病院に運ぶからね」。救急車が来て、愛子ちゃんと医師が乗り込み、扉が閉まるとサイレン音が鳴り響きました。その日は雪が降っていて、道路にもうっすらと雪がつもり始めていました。

荒絵里さんと愛子ちゃん

愛おしそうに愛子ちゃん(1)の笑顔を見つめる絵里さんは「そのときは、まさか大ごとになるとは思っていなくて…」と振り返ります。「明日には会えるって、そう思って救急車を見送ったんです。今思い返した方が切なくて胸がぎゅっと苦しくなりますね」

 

翌日、厳重に守られたNICU(新生児集中治療室)で再会した愛子ちゃんは、片手を点滴で固定され、鼻には管と酸素のチューブ、心電図をつけられていました。

 

「心臓に3つ穴が空いていて、染色体異常の可能性があります」

 

もし突然、我が子にダウン症(ダウン症候群)の可能性があると告げられたら──?

ダウン症を持つ愛子ちゃん
荒絵里さんのInstagramより(2021年2月3日撮影 愛子ちゃん1歳2ヶ月)

絵里さんは「多くのご両親が経験されるように、私にも暗闇の中にいた時期がありました」と話します。けれど今、絵里さんがインスタグラムに投稿する愛子ちゃんのまばゆい笑顔の写真には、必ずこんなハッシュタグがつけられています。「#theluckyfew(ごく僅かな幸運な人)」。

 

これは絵里さんと愛子ちゃんの1年8か月のストーリー。けれど同時に、2人だけの物語ではありません。

 

年間約2,200人

(※国立成育医療研究センターの調べによる推定値)、1日に約6人、この世に生を受けているダウン症を持って産まれてきた子どもたちとご家族、そして、彼らと同じ社会に生きる私たち、すべてに通じるストーリーです。
ダウン症を持つ愛子ちゃんを抱く荒絵里さん

221号室、2,355グラムで産まれた我が子

北海道の余市町の丘陵地帯に広がる美しい農園。絵里さんが20代で夫の真仁さんと二人三脚で始めたぶどう園は、今年で12年目の夏を迎えました。

ぶどう園で作業する絵里さん

毎年丹精を込めてぶどう栽培に励む絵里さんには2人の子どもがいます。丈一郎くん(7)と、今年の11月で2歳になる愛子ちゃん(1)です。

ダウン症を持つ愛子ちゃんの家族

── 愛子ちゃんの妊娠の経過はいかがでしたか?

 

絵里さん:

妊婦検診ではずっと「順調で元気だね」と言われていました。つわりもありましたが、できる範囲でぶどう園の仕事も続けていたんです。11月に入ってからは仕事を休んでゆっくりと過ごしました。

 

── 出産した日の経過は覚えていらっしゃいますか?

 

絵里さん:

予定日より1か月早い11月末の夜中に急にお腹が痛くなって、少し出血しました。陣痛の可能性もあるからと、朝6時頃に病院に行って。あともう1日で36週に入るので「1回止めましょう」と言われて点滴を打ちました。

 

いったんは陣痛もおさまって「明日点滴を外したら、すぐ出産になると思います」と言われていました。「いよいよ明日かー!!」ってワクワクしながら寝ようと思ったら、痛みの間隔が短くなってきて、あっという間に10分間隔になって、1時間後にはツルッと産まれて…。

 

── あっという間だったんですね。

 

絵里さん:

はい。自宅から駆けつけた助産師さんが上着脱ぎながら猛ダッシュで病室に入ってくる様子を今も覚えています。看護師さんが「ここですーー!」って叫んで、「ちょっと待ってー!えー!産まれるー!手袋してからー!」って(笑)。

 

だから愛子は分娩台じゃなくて、病室のベッドで産まれたんです。11月28日の23時3分。221号室のベッドの上、2,355グラムで産まれてきました。

ダウン症を持つ愛子ちゃんの足

── 産まれたばかりの愛子ちゃんのことは覚えていますか?

 

絵里さん:

臍の緒を切った後に、病室だったので愛子の置き場がなくて「お母さん、ちょっと赤ちゃん持ってて」って言われて(笑)。ベッドの上で産んだ姿勢のまま、少し上体を起こして抱きました。

 

あの小ささと、産まれた直後のまだポカポカであたたかい感覚を今もはっきりと覚えています。

「呼吸が安定しない」雪が降る中、救急車で運ばれた我が子

── その後の経過を教えてください。

 

絵里さん:

病室で産んだので、その後、全員で処置室に移動しました。愛子や私の処置が終わると「とりあえず今日は休みましょう」ということになって。

 

その3時間後くらいかな?病室で眠っていたら、先生が慌てて入ってきて「荒さん、赤ちゃん大きい病院へ運びます。僕が一緒に救急車に乗るので。お母さんは明日会えますから」とおっしゃって。

 

救急車を待っている間、看護師さんが「赤ちゃん見る?」って言ってくださったんです。そのときに1枚だけ写真を撮りました。

ダウン症を持つ愛子ちゃん
2019年11月29日深夜、NICUに運ばれる直前に絵里さんが撮影した思い出の一枚

 

この写真は、思い出の写真です。愛子はその後、NICUで酸素や点滴で管がいっぱいつけられて、顔も浮腫んでこの時とは別人みたいだったので、あの頃の私にとって、管も付いてないこの可愛らしい写真は唯一の救いみたいなところがありました。

 

── 救急車に乗る前、医師から愛子ちゃんの状況について説明はありましたか?

 

絵里さん:

「酸素濃度が上がらず、呼吸が苦しそうなので」という説明でした。「こういう場合、心臓に問題がある場合もある」と。

 

今思えば、あのとき、看護師さんも助産師さんもお医者さんも、愛子がダウン症だと気づいていたのではないかと思います。抱いた感覚や、皮膚の感じで、医療従事者の方なら気づく場合が多いようです。

ダウン症を持つ愛子ちゃんの手

 

救急車が走り去るとき、看護師さんが「大丈夫?」と肩を抱いてくれて。でも私はそのときは悲しいとか、びっくりとかじゃなく「明日には会えるから大丈夫」とあまり深刻に捉えていませんでした。

 

その日は雪が降っていて、道路にもうっすら雪が積もっていました。その光景を、今もはっきり覚えていますね。

「ダウン症の可能性があります」息子の手を握りながら涙が溢れた

── 救急車で運ばれた翌日に愛子ちゃんに会いに行かれたのですか?

 

絵里さん:

はい。産院の看護師さんに「絶対持っていきなさい」と言って渡された痛み止めを持って、夫と息子と一緒に札幌のNICU(新生児集中治療室)がある大きな病院まで車で会いに行きました。

 

案内されたNICUは、厳重に守られた特別な場所でした。兄弟は会えないと言われて、まずは私1人で入ったんです。手荷物はすべて預けて、何度も消毒をして。心電図の音が鳴り響くその場所は、ドラマで見るままの空間で、とても現実とは思えませんでした。そのとき初めて「あ、これは大変なことになったのかもしれない」と気づいたんです。

 

── 愛子ちゃんの様子はいかがでしたか?

 

絵里さん:

愛子は両手を点滴で固定されて、鼻には呼吸を確保するためのチューブを通されていて、心電図がついていて、管だらけの姿でした。身体が冷えないように特別なベッドに寝かされていて…。

ダウン症を持つ愛子ちゃん
生後3日目に絵里さんが撮影した愛子ちゃんの写真

 

昨日見た可愛らしい姿とは変わっていて「何が起きているんだろう?」と。

 

その場にいた看護師さんに「何の病気なんですか?」と聞いたのですが「後で先生から説明があります」とだけ言われました。

 

子どもの状態がわからないまま、NICUの説明や、色々な同意書に次々とサインをしなくてはいけなくて…愛子の姿を見ながらいろいろな想いが溢れて、状況を飲み込めなくなって、その場でボロボロと泣いてしまったことを覚えています。

 

── 産後1日で心も身体もついていかない状態ですよね。医師からはどんな説明がありましたか?

 

絵里さん:

別室で医師の説明を受けました。「心臓に3つ穴がいています。いくつか特徴が合致しているので、染色体の検査をしたいと思います」と言われました。「染色体の検査?」と聞き返したら、医師から「ダウン症というと聞いたことがあると思うのですが…」と。そのとき「あぁ、愛子はダウン症なんだな」とすぐに理解しました。

ダウン症を持つ愛子ちゃん

そのときは息子が一緒にいたので、気丈に振る舞っていて。

 

でもその後、心臓の専門医から、心臓の絵を見せられて「ここと、ここと、ここの3箇所に穴が空いていて、血液の流れがこうなっていて、最悪の場合は心不全を起こすこともあります。この1週間が重要です」と説明を受けました。

 

泣くまい泣くまいと思っていたのに、息子の手をつなぎながら涙が止まらくなってしまって。当時、年長さんだった息子は「お母さんどうして泣いているの?」と。

心臓の絵
息子の丈一郎くんが当時の説明を思い出して保育園の時に書いた絵。心臓の絵の下には「あながあいています」の文字が(2019年12月絵里さん撮影)

 

── ご主人の真仁さんとはどんな話をされたか覚えてらっしゃいますか?

 

絵里さん:

息子がいたので2人で話す時間はあまりなかったんです。でも待合室で待っているときに「こうきたかー」って短い言葉を交わしたのを覚えています。「次はここ(障害のある子を育てるという分野)に足を踏み入れるんだね」と。

ダウン症を持つ愛子ちゃんとご両親

── 札幌の病院から産院に戻られた後はどんな気持ちでしたか?

 

絵里さん:

一度3人で産院へ戻り少しの間病室で過ごしました。息子の前ではもう泣かないようにと元気に見せようとしていた覚えがあります。

 

夫と息子が自宅に戻ったあと、ベテランの看護師さんが「大丈夫かい?」と優しく声をかけてくれて…。その瞬間、我慢していたものが決壊しました。次から次に涙が溢れて止まらなくなって。

 

看護師さんは何をアドバイスするでもなく、ただ黙って私の話を聞いてくれました。

 

あの日は、何が悲しいかもわかりませんでした。シャワーを浴びて少し落ち着いたと思っても、また自然と涙が溢れてくる。泣いて、泣いて、泣いて。目が無くなるんじゃないか、というくらい泣き続けました。

ダウン症を持つ愛子ちゃんの手を握る絵里さん

暗闇の中にいた日々 この子は「私に似ないのかな」

── 入院中の心境は、どのようなものでしたか?

 

絵里さん:

今思い返しても、暗闇の時間でした。あのときほどつらいときはなかったと思います。スマートフォンでダウン症について検索して、特徴を調べては「あぁ、やっぱりそうか…」と落ち込んで、「でも違うかもしれない」と違う可能性を探して。

 

ダウン症の子は、手にますかけ線がある場合が多いんです。産まれた愛子を抱いているときに5秒だけ撮影した動画あって、その動画をスローでゆっくり見返してみると手にますかけ線があって。「あぁやっぱり…」と。まるで答え合わせをしているようでした。

愛子ちゃんの手

ダウン症なのかもしれない、と確信が深まっても愛子はそばにいないし、1人では何もできない。

 

それなのに産院では、お祝い御膳が出てきて、お掃除の方に「おめでとうございます!」って声をかけられて。

 

幸せムードの産院と自分が置かれている現状とのギャップを本当につらく感じました。

 

── スマートフォンの中にあるダウン症の情報をどのように受け取りましたか?

 

絵里さん:

「成長がゆっくり」や「合併症を抱えていることが多い」という文言を見ても、とてもポジティブには捉えられませんでした。どんな子育てになるんだろうって不安ばかり。

 

ダウン症の方々の顔つきを思い出して「この子は私に似ないのかな」と考えたり。運動できるのかな。結婚できないのかな。孫も見れないのかな、とか。ずーっとそんなことを考えていました。

荒絵里さんの後ろ姿

今思い返すと、当時はあまりにも無知だったと思います。イメージでしかダウン症を知らなかった。

 

ダウン症であっても、当たり前だけどそれぞれ違う顔立ちをしていて、両親に似ます。可愛いお洋服も着れるし、一緒にお買い物にも行けるし、もちろん会話もできるし、学校にも行けるし、就職もできる。アーティストも、モデルもいて、結婚されている方もいる。

 

でも当時は、何も前向きに捉えられなくて、長いトンネルの中にいるようでした。

「元気に産んであげられなくてごめんね」のLINEに夫は…

── そのトンネルの出口が見える、何かきっかけになるような出来事はあったのでしょうか?

 

絵里さん:

産院での時間は苦痛でしかなく、状況を察した医師が「早く退院しますか?」と言ってくださって3日目に退院することになりました。

 

入院最後の夜、夫にLINEを送ったことを覚えています。「元気に産んであげられなくてごめんね、、」って。

ダウン症を持つ愛子ちゃんと両親

── ご主人からはどのような返事が?

 

絵里さん:

夫から「愛子は元気に生きてるじゃん」って返事がきたんです。

 

退院したその足で愛子に会いに行って、彼女を見て思いました。「そうだね。愛子は生きてる。たくさん管に繋がれてるけど、頑張って生きている」って。

 

その日にたくさん写真を撮って、息子にもようやく愛子の写真をたくさん見せてあげることができました。

ダウン症を持つ愛子ちゃんとお兄ちゃん

── 少しずつ、トンネルの出口が見え始めた?

 

絵里さん:

もちろん時間はかかりました。検査結果が出るまで2週間あったので、それまでは自宅で悶々と過ごす時間もあったんです。産後の体なのに無理を押して、自分で運転して愛子に会いに行こうとして夫に止められて、大泣きしながら引き返したこともありました。

 

「大丈夫かもしれない」と思えたのは、産後9日目に愛子に会いに行ったときです。

ダウン症を持つ愛子ちゃん
生後9日目に絵里さんがGCU(新生児回復室)で撮影した愛子ちゃんの写真

 

いろいろな管が少なくなって、温かい毛布に包まれて眠る愛子を見たときに「なんて可愛らしい子なんだろう」って思えたんです。ダウン症の特徴を探すのはやめて、ただただ愛おしいと思って彼女を眺めました。「可愛い、可愛い」って愛子を見てる自分に、なんだかホッとして。

 

その日初めて愛子におっぱいをあげました。

 

GCU(新生児回復室)の室温やにおい、機械のピーピー音、オルゴールの音を聴きながら授乳したこと。すべて鮮やかに覚えています。愛子におっぱいをあげながら「きっと大丈夫」と思えたあの日のことは、きっと生涯忘れることはないのだろうと思います。

ダウン症を持つ愛子ちゃんの手
GCUで過ごす絵里さんと愛子ちゃん

 

絵里さんにインタビューするにあたって、ダウン症候群のことを調べ始めて気づいたことがあります。私はダウン症に関して「あまりに無知だった」と。ダウン症を持つ赤ちゃんがどのように成長し、学び、社会に出ていくのか、どのようなライフコースで人生を送るのか、これまで想像したこともなかったのです。

ダウン症を持つ愛子ちゃん
荒絵里さんのInstagramより(2021年1月24日撮影 愛子ちゃん1歳1ヶ月)

 

ダウン症の発症率は約700人に1人と言われていて、実はごく身近にある障害です。ごく身近にあるのに「知らないから怖い」という方は多いだろうし、出生前診断とセットで語られることの多いダウン症に、ネガティブな印象を持っている方が多いのは当然のことなのかもしれません。

 

そしてこの「イメージ」が、絵里さんをはじめ、ダウン症のある子どもを持つご両親の多くを苦しめる原因になっていることも理解することができました。現代の医療は、ごく短い期間に命の選別を迫ることがあります。けれど、その重要な選択をさせるほど、ダウン症についての理解が進んでいないのが現状なのかもしれません。

 

このインタビューは、絵里さんのストーリーです。けれどいっぽうで「私たち」が知るべきストーリーだと感じながら取材をしました。

愛子ちゃんと母親の絵里さん
取材・文/谷岡 碧 撮影/谷岡功一

次回は、愛子ちゃんがダウン症であることを両親や長男に伝えたときの気持ちや反応、愛子ちゃんの笑顔が家族の真ん中にある子育ての日々、出生前検診に対する思いなどをお伺いします。