悩む女性

今、「哲学」が密かなブームになっています。哲学に関する書籍が次々出版されたり、解説動画がYou tubeでランキング入りしたりと、生き方のヒントを哲学に求める人が増えてきました。

 

生きていると自然と湧いてくるさまざまな悩みに、古今東西の哲学者はどう答えるのか。哲学者・山口大学教授の小川仁志先生による超訳とともに、「生きにくさ」に哲学的にアプローチをしてみたいと思います。 

「自分以外はみんな恵まれているように見えて、妬嫉が止まらない…」

Aさんの旦那はイクメンで家事・育児に協力的、だからAさんは出世できる」「Bさんは実家のサポートが厚くて休日に自分の時間を持てているのに、私はずっと家事と育児だけしている」というように、自分と他人を比べて、つい誰かを妬んだり嫉んだりしてしまうことはありませんか?

 

嫉妬に支配されて自己嫌悪に陥る前に、ニーチェの言葉を知ってほしいと思います。

 

フリードリヒ・ニーチェ(ドイツの哲学者。1844~1900年)

「高貴な魂は自己に対して畏敬をもつのだ」

(『善悪の彼岸』岩波文庫)

小川先生の超訳  

ここでいう「高貴な魂」とは、「自分の価値基準を尊重すること」といったニュアンスです。超訳すると、「自分の価値基準を明確に持つ人は、幸せに生きていくことができる」となります。

 

ニーチェの言葉を読み解くと、妬みや嫉みを抱く人は、自分の価値基準を尊重していません。他人の価値基準を尊重しているがゆえに、隣の芝生が青く見えてしまうのです。

 

自分の価値基準で生きていれば、他人の価値基準に惑わさることはありませんよね。他人がどうであれ、自分は自分なのですから。そもそも、他人と比較するようなことはしません。比較は他人の価値基準を用いることなので、妬みや嫉みに巻き込まれ、不幸を招くだけです。

 

高貴な魂を胸に、他人なんか気にせず邁進しましょう。

「夫婦なのに家事も育児も私ばかりがやって…これって損じゃない?」

パートナーのどちらか一方が家事・育児に非協力的で、どちらかに負担が偏ってしまっている、というのは残念ながらよくあること。特に共働きのカップルの場合、「なぜ私ばかり…」とイライラが募り、ときには大喧嘩に発展することも。相手に対して寛容になるにはどうしたらいいのでしょう?

 

エーリッヒ・フロム(ドイツの哲学者。1900~1980年)

「与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである」

(『愛するということ』紀伊国屋書店)

小川先生の超訳  

愛というのは与えること。与えることは奪われることではない。相手に愛を与えていれば、いずれ自分に返ってくる。決して損はしていない。だから、愛を与えることに喜びを感じるようにしよう——。フロムの言葉は超訳するとこうなります。

 

フロムが言うように愛を捉えたら、パートナーに対して寛容になれるのではないでしょうか? 家事・育児を担うことを"損"と考えていると、イライラは募るばかりと思います。でも決して損ばかりではなく、自分にとってプラスになっている面もあるはずです。

 

例えば、栄養ある食事を家族に対して提供することは、手間も時間もかかるので"損"のように感じてしまうかもしれません。しかし食事によって家族全員が健康でいられれば、共働きという状態を維持することができ、家計は安泰となるかもしれません。それは皆さんの幸せにもつながりますよね。また、そういった愛ある行動により、パートナーの家事・育児の分担がうまく機能するきっかけになるかもしれません。

 

相手に与えた愛がすぐに返ってこなくても、与えることができれば、いつかは自分にもきちんと返ってくるわけです。「愛というのは与えること」。その真の意味を理解したら、自然と寛容でいられると思います。

「日々漠然とした不安を感じる。コロナでその思いは倍増…」

仕事のこと、お金のこと、健康のことなど、漠然とした不安がつのる。コロナ禍によって、その思いがより強くなってしまったという人も少なくありません。

 

 「なんとなく不安…」。この思いを解決してくれるヒントが、ハイデガーの言葉にありました。

 

マルティン・ハイデガー(ドイツの哲学者。1889~1976年)

「不安がそれを案じて不安を覚えるところのものは、世界=内=存在そのものである」

(『存在と時間 上』ちくま学芸文庫)

小川先生の超訳 

ハイデガーの言葉は常に難解。簡単には読み解けませんが、この一文を超訳すると「究極の不安は私たちの存在の不安だ」となります。

 

漠然とした不安を抱く理由はさまざまです。「仕事を失ったらどうしよう」「お金がなくなったらどうしよう」「病気になったらどうしよう」…などと多岐にわたりますが、究極的にはすべて「自分が生きていけない状態」に通じていて、それが「存在の不安」を指します。すなわち、漠然とした不安の根底にあるのは「死」。死に対する不安が究極であり、不安の正体です。

 

では、死を回避することはできるでしょうか?できませんよね。死は誰にでも平等に訪れます。であれば、私たちにできるのは、死ぬまでの時間を一生懸命生きること。そう捉えた瞬間から前向きになれるのです。ここにハイデガーの哲学の本質があります。

 

漠然とした不安の根底には死がある。死は避けられない。ならばそれまで頑張ろう——。というように考えたら、漠然とした不安を乗り越えられるのではないでしょうか。

「自由がなくて、やりたいことが全然できない!」

誰しも一度は「仕事や家事などやらなければならないこと多く、自由がない」と感じたことがあるのではないでしょうか。もっと自分の時間がほしい、やりたいことや好きなことに取り組める自由がほしいと思う人には、サルトルの言葉が参考になりそうです。

 

ジャン=ポール・サルトル(フランスの哲学者。1905~1980年)

「実存は本質に先立つ」

(『実存主義とは何か』人文書院)

小川先生の超訳 

これはサルトルの名言として知られています。超訳すると、「人間は自由を作り出すことができる」となります。

 

私たちは「自由がほしい!」とよく口にします。でも、実際のところ誰かに自由を制限されているわけではないですよね?また誰かが自由を与えてくれるわけでもない。自由はあくまで自分で作り出すもの。サルトルが言うように、人間だからこそ自由を作り出せるのです。

 

モノは自分で自由を作り出すことができません。「本」は生まれたときから「本」であり、芸術家になろうと思ってもそれは叶いません。でも人間の場合、いくらでもそういった可能性を持ち合わせています。

 

当たり前過ぎて気づかない人が多いですが、モノと比較するとハッとさせられるでしょう。サルトルはペーパーナイフを例に挙げています。「ペーパーナイフは最初からペーパーナイフと決まっていて、ずっとペーパーナイフのままです。でも私たちは赤ちゃんとして生まれてきますけど、いまどうですか? 私は哲学者ですし、それぞれ変わっていますよね?」と語っています。

 

自由を求めるなら、人間は自由を作り出せる存在であることにまず気づくこと。そして行動を起こせば自由は手に入るのです。

 「気分が乗らず、やる気が出ない」

なんだか気分が乗らず、やる気が出ないというのは、仕事でも家庭でもよくある状態ではないでしょうか。多くの場合、それでもやらなければいけないことをこなそうと努力しますが、やっぱり気持ちは萎んでしまいますし、身体的にもしんどいもの。自分の「気分」とどう向き合えば、生きやすくなるのでしょうか?

 

アラン(フランスの哲学者。本名エミール=オーギュスト・シャルティエ。1868~1951年)

「上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」

(『幸福論』岩波文庫)

小川先生の超訳 

この一文は超訳するまでもないかもしれませんね。 人間は基本的に「気分が乗らず、やる気が出ない」ものです。元気でやる気満々なほうが珍しいと思います。なので、そういう人を見たら自然と「今日元気だね」とか、「あの人、すごくポジティブだよね」と言ってしまうわけです。 

 

「気分が乗らず、やる気が出ない」のは自分だけではない。そう思えば、少し気持ちがラクになりますよね。では、もっと気持ちをラクにするにはどうすればいいか。アランは幸福のために「意志と自己克服」が必要とし、その方法のひとつとして「笑顔を作ること」を挙げています。

 

暗い顔をしていると、気分も暗くなります。幸せは遠ざかるばかりです。逆に、笑顔を作れば、自然と気分は明るくなり、幸せを呼び込めるのです。

 

気分も幸福も自分次第。ハッピーになるのはそんなに難しいことではありません。

 

PROFILE 小川仁志先生

哲学者小川仁志先生近影
哲学者・山口大学教授。京都大学法学部卒、名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。博士(人間文化)。商社マン(伊藤忠商事)、フリーター、公務員(名古屋市役所)を経た異色の経歴。専門の公共哲学の観点から、「哲学カフェ」をはじめ哲学の普及活動を行っている。Eテレの哲学番組などメディア出演も多い。著書は『幸福論3.0』ほか100冊以上。

取材・文/百瀬康司