虐待の経験がある子どもは、トラウマや心の傷を抱えて生きている可能性が高い ── 。
今、そんな現実を世に知らしめる署名活動が行われています。その名も「児童虐待は保護されて終わりじゃない」。虐待によってトラウマや心の傷を負った子どもや若者が、心のケアなどを当たり前に受けられる社会にしたいと訴えるものです。
虐待が常態化するなど、劣悪な家庭環境から保護された子どもたちは、その後、児童養護施設等で暮らすことが少なくありません。その環境下でも、心のケアがなされないまま大人になっている人も多いというのです。
署名活動の発起人は、山本昌子さん(28歳)。山本さん自身、親から虐待を受けた当事者です。
今回、山本さんが実際に経験した虐待のことや、保護されてから施設でどんなふうに暮らしてきたかを取材しました。話を伺いながら、心に傷を負った子どもたちにどんなケアが必要か、周囲の大人にできることは何かを考えます。
育児を放棄され、生後4か月で保護「今思うと、母は産後うつだったのかも」
山本さんは生後4か月で乳児院に保護されました。両親からのネグレクト(育児放棄)が原因です。
両親は年齢が20歳違う年の差結婚でした。母親が父親の実家に入る形で始まった結婚生活は、父親の姉妹たちとの関係がうまくいかなかったこともあり、すぐに危機を迎えたそうです。当時、夫婦で家を出ることを望んだ母親でしたが、長男だった父親は実家に留まることを選択し、母親だけが山本さんを残して家を出ることに。
「今思うと、母は産後うつだったのかもしれません。家を出る前から母乳やミルクを与えないなどネグレクトは始まっていたようです。さらに父は、『男は外で仕事、家庭を守るのは女』という考えが強く、母親がいなくなってからはさらにネグレクトがひどくなったようでした」
ミルクを与えられず衰弱していく山本さんの様子に気づいたのは、父親の姉でした。救急車で運ばれ、そのまま乳児院に預けられました。
2歳になり、児童養護施設に移った山本さん。父親は養子縁組を願い出ましたが、施設職員の説得により自分の娘として児童養護施設で育ててもらうことを決意したのだそう。以降、18歳で山本さんが退所するまで、面会にも定期的に訪れたそうです。
「多い時で3か月に1回くらい、施設の誰よりも面会に来てくれていました。幼い頃は遊園地や水族館に連れて行ってくれたことを覚えています」
「児童養護施設に預けられた私はすごく恵まれていた」
山本さんが入所していた児童養護施設は、一軒家の家庭的な雰囲気の中で子どもを育てることを大切にした場所でした。「家庭的養護」といわれるこの取り組みは、当時、大きな施設で子どもが集団で暮らすことが多かった中、先進的だったといえます。
山本さんは、その児童養護施設で暮らしていた頃を振り返り、「すごく幸せだった」と話します。荒れていた時期もあったけれど、「施設に預けられてよかった」と。今ではすっかり仲がいいという父親からは、「俺は、自分一人では育てられないと判断をして施設に預けた。そのおかげで昌子はきちんと育った」と言われたこともあるそう。
「もし子どもを育てることに難しさを感じる人がいたら、『自分では育てられない』と受け入れることも考えてほしいと伝えたいですね。その先の選択肢の一つとして、児童養護施設に預けることが当たり前の世の中になればいいなと。保護されることは、心の傷を治療する一歩なんです。私は施設で恵まれた生活をすることができたし、そういう意味で父に感謝しています」
血が繋がっていない大人が「あなたが大好きだよ」と伝えてくれた
生後4か月から施設で暮らした山本さん。なぜ、「恵まれていた」と話すのでしょうか。その答えは、まわりの大人との関係性にあったようです。
乳幼児期に、両親との間でコミュニケーションを重ねながらの信頼関係が育まれなかった山本さんは、愛着形成の部分で少し課題を抱えていたそうです。
「生後4か月で親子分離があったことは、子どもの頃の自分に大きな影響を与えていました。物心ついた頃から問題行動を起こしていたと思います。ほかの子のお母さんにベタベタとまとわりついていました。それに何か気に入らないことがあると相手にかみついたり、物を投げたり、攻撃することで感情を表現していました。明らかに問題児だったと思います(笑)」
山本さんが暮らしていた児童養護施設は、本園が別にありました。分園だった山本さんの施設には臨床心理士など心のケアの専門家がいなかったため、大きな問題行動を起こす子どもたちは本園に行き、ケアを受けることもあったそうです。
山本さんの場合、中学生になっても暴力的な行動が収まらなかったため、必要に応じて専門家に話を聞いてもらっていたと言います。
「ただ、施設の育ての親や職員さんたちが、本当の家族のように、とても温かく接してくれていました。そのおかげで心の傷も癒えていったのだと思います。施設を退所してから、他の児童養護施設出身者の話を聞くと、自分がいかに素晴らしい人間関係の中で過ごしていたか、よくわかりました。仕事とはいえ、私たちにいつも一生懸命向き合い、意思を大切にしてくれたんです」
職員たちはどんな時も、山本さんにたくさんの言葉をかけてくれました。山本さんが問題行動を起こした時には、きちんと叱ったうえで、「あなたのことが大好きなんだよ」の言葉も欠かさなかったそう。山本さんにはどんなに良いところがあるか丁寧に言葉にし、「自分の良さをもっと生かして生きてほしい」と真剣に伝えてくれたと言います。
「中学生までの私は、叱られても仕方がないような行動ばかりとっていました。でも、自己肯定感が下がらなかったのは、育ての親や職員さんたちが一生懸命『大好きだよ』と言葉にしてくれたからだと思っています」
「一生血はつながらないけど、あなたを愛し育てるよ。たとえあなたに思われなくても…」
職員たちと過ごした一日一日が大切な思い出だという山本さん。なかでも特別な出来事として覚えているのが、小学2年生の頃、職員に心ない言葉をぶつけてしまった時のことだと言います。
揉めごとがあり、そのやりとりの中で「どうせ仕事だからでしょ!血もつながっていないくせに」と、ある職員に怒りをぶつけてしまいました。
それに対して職員が取った行動に山本さんは胸を打たれます。
「一生血はつながらないし、世間でいう家族にはなれないかもしれない。でも、私はあなたを一生懸命愛して育ててるよ。たとえあなたに思われなくても、私がいつもあなたを思っていることに嘘はない」と、山本さんを抱きしめたのです。
「『ああ、こんなにも私を思ってくれる人がいてくれるんだ』と思えて、わだかまりがスーッと消えていきました」
当時の職員たちとは今も良い関係が続いており、一緒に育った子たちと家に泊まりに行くこともあるそう。昔は職員と子どもという関係でしたが、今は一人の人間として付き合っています。
山本さんが育った児童養護施設は、10年間職員の異動がなく、同じ職員が一人ひとりの子どもに寄り添える仕組みをつくっていました。当時の育ての親が上司にかけあってそのような体制を実現したそうですが、この信頼関係が続いているのはその影響が大きいと言います。
「私はこれまで、親から長年監禁生活を強いられたり、包丁をつきつけられたりといった壮絶な虐待を受けた子にも出会ってきました。そういった子たちは、私のような環境で暮らせなかったせいで、今も苦しんでいます。今からでも専門的な心のケアを継続的に受けることが必要なんです」
それと同時に、職員たちの負担が大きい、現状の児童養護施設の環境を改善すること。また、職員たちが虐待に遭った子どもたちにどんな心のケアが必要かを理解し、正しい知識を身に付けることも急務だと言います。
「その子に今、どんな言葉や言動が必要なのか、周囲の大人が状況に応じて適切な言葉をかけていくことで、その子の生きづらさは軽減されていくはずです。そして、“人”としてつながり続けていくこと。それが心の傷を癒やすことにつながるのではないでしょうか」
…
次回は、山本さん自身が児童養護施設を退所後に体験した生きづらさと、署名活動「児童虐待は保護されて終わりじゃない」を始めたきっかけを伺います。
Profile 山本昌子さん
1993年生まれ。生後4か月から19歳まで乳児院、児童養護施設、自立援助ホームで育つ。2016年に「ACHAプロジェクト」を設立。代表として、児童養護施設出身の女性たちのために振袖を着て撮影をする支援を行ってきた。現在は居場所・食料・衣料の支援を通し、当事者たちと支えている。同じ児童養護施設出身の男性2人と組んだユニットでYouTube番組「THREE FLAGS ―希望の狼煙―」を定期的に配信。また署名活動「児童虐待は保護されて終わりじゃない ―心の傷に苦しむ子ども・若者に心のケアを―」(https://bit.ly/3ck70nd)を展開中。
取材・文/高梨真紀 撮影/河内 彩