出産すれば仕事が制限されたり、仕事か育児のどちらか二択を迫られることもまだまだ多い現代。その反面、出産を経て夢が広がり、新たな道を目指す女性もいます。

市川愛さん
市川愛さん

 

シンガーの市川愛さん(37)は、メジャーデビューの翌年長女を出産、その直後に「助産師を目指す」と決め、猛勉強を始めました。現在は「助産師&シンガー」を目指して、母、シンガー、看護学生と3足のわらじを履く生活を送っています。夢を追い続ける彼女の原動力に迫ります──

どうして「忙しい」とは感じないの?

まず彼女に尋ねたのは1日のタイムスケジュールでした。

 

「朝起きて、娘(21年6月で2歳)と遊んだり登園準備をして、朝ごはんを食べたら出発。夫が娘を保育園へ送って、私は朝9時から夕方16時まで看護学校で学んでいます。

 

16時半には娘を迎えに行って、そこからは家族の時間。娘が寝静まったら、自宅のスタジオに入って制作活動をしたり、ライブに向けて歌ったりしています」

 

季節ごとのライブをこなしながら、来年には看護師の国家試験を控えています。両立が難しいとか、忙しいとは思わないですか?と聞くと、彼女は笑顔でさらりと答えてくれました。

 

「『忙しい』とか『両立させなきゃ』という感覚があまりなくて。娘の存在が私を看護学校へ導いてくれた。学校では命に関わる、生きる上での本質的な学びを得ていて、そこで感じる事は、今の私の曲作りや音楽活動に欠かせないものです。3つの役割があるけれど、それぞれ高め合っている、と言えばいいのかな。もちろん、夫の支えなしには実現できないので、彼には頭が上がりません。(笑)」

メジャーデビューまでの道のり

神奈川県藤沢生まれ。「上手に歌うと家族が褒めてくれるのが嬉しくて」幼い頃から歌う事が好きでした。慶應義塾大学に進学後、Jazz研究会に所属。大学時代に訪れた鎌倉のジャズクラブとの出会いが、彼女の「歌いたい」という夢を確固たるものにしました。

 

「鎌倉のジャズクラブで歌っているシンガーを見たとき、そこに一筋の光が灯っているように見えたんです。こんな職業があるんだ。私もなりたい──

 

大学卒業後は株式会社リクルートに入社して音楽活動を続けましたが、「音楽家としてさらに成長したい」との思いから2年半で退社。25歳の時にアメリカ・ボストンにある名門バークリー音楽院への留学を決めます。ギリシャへの交換留学を経て、卒業後帰国。日本で本格的な音楽家としての道を歩み始めました。

 

17年には尊敬し続けてきたシンガーソングライター・浜田真理子さんから「あこがれ」という楽曲を提供され、翌18年に「あこがれ」を含むアルバム「MY LOVE, WITH MY SHORT HAIR 」(菊地成孔氏プロデュース)でメジャーデビューを果たしました。

 

「18歳の時からあこがれつづけた浜田真理子さんに「あこがれ」という楽曲を提供してもらい、シンガーとして1つのゴールと考えていたメジャーデビューを果たすことができました。その時には結婚から5年が経っていて、自然と母になりたいという気持ちが湧いてきました。」

「生きるために泣く」娘の出産で学んだ一番大切なこと

「もともと子どもは好きでも嫌いでもなかったし、妊娠中は『自分の子どもなら無条件に愛せるのかな?』など不安になったこともありました」という彼女。

子供と遊ぶ市川さん
子どもと遊ぶ市川愛さん

 

19年6月にむかえたお産はもう少しで帝王切開という難産でした。赤ちゃんとの対面の時どんなことを感じましたか?と尋ねると「…思い出すとどうしても涙が出ちゃうんですが」と断った後、1つ1つ言葉を選びながらこんな風に話してくれました。

 

「ようやく生まれてきてくれた娘は真っ赤な顔で泣いていて。この人がパパで、この人が助産師さんで、私がママということさえ『今はわからないんだろうな』って思ったんです。

 

でも『生きる』ということだけは知っている。『生きる』ために泣いている。何も知らないけれど、1番大切な『生きる』ということを知っている娘は『すべてを知っている』存在だと思えました。

 

娘は、生まれた瞬間に人生で一番大切なことを私に教えてくれたんです」

 

妊娠、出産、そして我が子との出会いは、彼女にとって生涯忘れ得ぬ体験となりました。その出産の過程を支え、伴走する「助産師」に尊敬の念を抱くようになったのは自然な流れだったと言います。ただ当初は「あこがれ」ていただけ。彼女の心を動かしたのは、新生児訪問で自宅に来た助産師のひと言でした。

 

「『助産師ってどうやってなるんですか?』と軽い気持ちで聞いたら細かく教えてくれて。『何歳からでも目指せるよ』って言われたんです。『できるよ』って。その瞬間、鎌倉のジャズバーで光が灯ったのと同じ感覚になりました」

 

ではいつ受験するのか?「まだ娘が赤ちゃんだから…」と迷う彼女の背中を押したのは夫の宏之さん(37)でした。

 

「鉄は熱いうちに打て!と思いました。『助産師になりたい』という彼女の意思は固まっていた。それなら『今、チャレンジしようよ』って」

 

そこからは予備校に通いながらの猛勉強が始まりました。2時間おきに授乳が必要な娘のために、予備校の外では娘を抱いた宏之さんが車の中で待機。夫婦二人三脚で受験を乗り切り、志望していた看護学校に無事合格することができました。

「勉強」も「音楽」も「子育て」も本質だけを見つめる

看護学校での勉強について「大変だけれど、今は楽しくて仕方がない」という彼女。一方、音楽活動には時間的制約ができました。もどかしさは感じないでしょうか?

 

「昔は宣伝とか告知に時間をかけたりして、結構無駄なこともやっていた気がするんです。音楽をやる上で大切なことは『心から湧き出るものに耳を傾け、素直に表現すること』。ただそれだけでいいと気づきました。今はそのことにフォーカスできている気がします」

 

では「子育て」で大切に思っていることは?

 

「彼女は生まれたときにもう十分に私に大切なことを教えてくれました。だから、私が偉そうに教えることは何もない気がして(笑)。彼女の純粋なエネルギーを奪わないように。日々そう思いながら向き合っています」

 

今は看護学校の2年生。来年看護師の国家試験に受かれば、さらに助産師学校へ進み、助産師資格が取得できるときには節目の40歳を迎えます。

 

「40歳からの自分を思い浮かべた時に「助産師であり、歌手である自分」が想像できたし、そんな未来にあこがれを覚えました。音楽を奏でている時、私は心の底から「生きてる」って感じられるのですが、娘のおかげで人生に新たな光が灯りました。赤ちゃんも、妊婦さんも、愛おしくてたまらないんです。音楽以外でこんなに心を揺さぶられたことはない。『この心のゆさぶりは絶対失ってはいけない』っていう確信は日に日に確かなものになっています。」

歌う市川さん
歌う市川愛さん

 

看護学校の講義の合間にインタビューに応じてくれた市川さん。「3足のわらじ」を履く生活の秘訣は「時短」でも「効率化」でもなく「本質を見つめる」こと。彼女の言葉の中には「母になれば忍耐が求められ、仕事も制限される」というステレオタイプを鮮やかに打ち破るヒントが、たくさん隠されているような気がしました。

 

PROFILE 市川愛さん

5歳よりピアノ、バイオリンを始め、慶応義塾大学卒業後、リクルートに就職。脱サラして、2009 年バークリー音楽院に留学。卒業後、歌手、作詞家として「ガンダム」や、映画「ジョゼと虎と魚たち」の挿入歌の歌唱、ユニクロのナレーション等、活動の幅を広げていく。2018年、音楽上のメンターである浜田真理子さんから楽曲提供を受け、菊地成孔さんプロデュースによりSONY Musicよりデビュー。今最も注目すべきアーバン・ミュージックの女性シンガーの一人。公式ホームページ https://ai-ichikawa.com/

取材・文/谷岡碧