本間ちなみさん

「明日になれば何かが変わるかもしれない、と思ったんです。明日になればお母さんとお義父さんが優しくしてくれるかもしれない。明日になればご飯を食べさせてくれるかもしれない。明日になれば学校に行けるかもしれない。そう自分に言い聞かせていました」

 

幼少期から20歳になるまで親から虐待を受けて育った本間ちなみさんは、昔を振り返り、こう話します。現在は、シングルマザーとして2人の子どもたちと暮らす本間さん。PTSD(虐待を含む)、解離性障害に加えて知的障害、身体障害を抱えています。取材が行われたのは、本間さんの誕生日の3日後。よく晴れたその日、取材場所に現れた本間さんは、壮絶な過去を感じさせない柔らかな笑みをたたえ、「52歳になりました」と静かに語り始めました。

1から始まった虐待の日々

木蓮の蕾

本間さんは1969228日に生まれました。その翌々日の32日、教会の入り口の前に、生まれたばかりの本間さんが入れられたカゴが置かれます。教会のシスターは、名前を「ちなみ」と名付けました。

 

教会から乳児院にうつった後、施設で暮らすことになった本間さん。ところが小学1年生の時に母親が施設から本間さんを引き取り、義理の父親との3人の生活がスタートすることに。それは同時に、本間さんにとって虐待の始まりだったのです。

 

「義父は私に性的虐待を繰り返すようになりました。最初は『普通のお父さんってこんなことするのかな?』と不思議に思っていました」

 

そのうち「やっぱり普通とは違う」と思うようになった本間さんですが、その虐待が止むことはありませんでした。結局、母親が義父と別れる17歳までのあいだ、本間さんを苦しめたのです。

本間ちなみさん

いっぽう母親は、小学1年生で本間さんが交通事故に遭った同時期に、妊娠中の子を亡くしたことで本間さんを責め続けました。「お前が交通事故なんて起こさなければ。お前なんて生きてるんじゃない」。朝から晩まで、毎日のように言葉の暴力を受けた本間さん。「私は生きてちゃいけないのかな」と思い始めます。

 

こうした母親の言葉の暴力、義父による暴力、ネグレクトは、日常的に行われていたそうです。

 

「普段の食事は、大さじ一杯のご飯にみそ汁のうわずみをかけたものだけ。冷蔵庫を開けても梅干しやビールくらいしかないんです。だから、公園や道に生えている雑草を抜いてゆでて食べたり、わら半紙を食べたりしながら空腹をまぎらわせていました」

キラキラ光った、お茶碗いっぱいの白いごはん

本間まなみさん

小学3年生の時に7歳年下の弟が生まれてからは、弟を守るように本間さんは生きていきます。乳児だった弟の世話も本間さんの役目。しかし、ミルクの作り方も飲ませ方も、ミルクを飲ませた後にゲップをさせることも誰にも教わっていない状態でした。

 

いつものように、弟とふたりきりで過ごしていたある夜。ミルクを飲ませた後そのまま横にさせたところ、弟がミルクが噴き出したことに驚いて、助けを求めに外へ飛び出します。マンションの隣人を1軒ずつ訪ねる本間さん。「誰か出てきて…」と願いを込めるようにドアを叩くと、何軒か目でようやく若い女性が出てきたそうです。

 

「弟が死んじゃうかもしれない。助けてください」。本間さんがそう言うと、「おむつを何枚か持っていらっしゃい」と返事があり、弟と一緒に部屋に招かれました。「お食事は?」と声をかけられたかと思うと、本間さんの目の前に出てきたのが、お茶碗に入った白いご飯と温かい味噌汁とおかずでした。「どうしてあなたみたいな小さな子が赤ちゃんのお世話をしているの?」と聞かれ、「お食事まだなんでしょう?どうぞ食べなさい」と促された本間さん。その時のキラキラと輝いた白いご飯のことは今でもよく覚えていると言います。

 

「うれしかったですね。あんなふうに自分のことを優しく気にかけてもらったのは初めてでした。義父が迎えに来てしまったので帰ったのですが、あんな隣人に会えたことで私は少し希望を持てたのかなと思います」

結局、大人たちに届かなかった虐待のSOS

本間ちなみさん

本間さんは小学校と中学校にほとんど通っておらず、

通学したのはあわせても2030回程度。ランドセルを背負って小学校に登校したのは、年に数回だったと話します。高校は2年生の時、母親によって退学させられたそう。

 

18歳から20歳までは朝3時から朝6時までコンビニで働いて、朝8時から夜10時までスーパーのレジ打ち。週末は結婚式場で働きました。母親から『家にいるんじゃない』と言われていたんです。私には自由な時間もない、何のためにこの世に生まれてきたのかなと神様をのろったこともありました」

木蓮の蕾

本間さんは幼い頃からまわりに助けを求めてきました。学校の教師や近所の人など、身近な存在の大人たちに「助けてください」と何度も。それでも、本間さんが心の底から叫んでいた「虐待を止めさせてほしい」の声は届くことはありませんでした。

 

「小学生の頃はまだ『虐待』という言葉自体を知らなくて、『お義父さんがこわい』『学校に行けていない』と言うのが精一杯でした。ご飯を食べさせてくれた若い女性にも伝えたし、実際心配してくれていたと思います。でも結局、何も変わらなかった。その人だけじゃどうすることもできなかったのかもしれません。それに、母親は家から一歩外に出ると愛想がよかったんです。悲しかったですね。ああ、なんでこうなるのかなあって」

虐待に悩む人は、「助けて」を諦めないで

著書を手にする本間ちなみさん

2019年に自費出版した自叙伝『明日も生きる』を手に、本間さんは言います。

 

「実の父親は57歳で亡くなり、義理の父親は先日他界しました。母親はいま、認知症のような症状で思うように会話ができない状態です。自分の人生、このまま終わるのは嫌じゃないですか。自分が頑張って生きた証を残したい。それがこの本になりました。30歳の時に『こういう人間がいることを世の中の人に知ってほしい』と思って、本を出すことを決めたんです。20年かけて何を書くか整理して、2週間で書き上げました。本が形になった時は、私の人生、無駄じゃなかったんだなあって思いましたね」

 

「明日も生きる」というタイトルも、本間さんが決めました。

 

「明日も生きれば何かが違ってくるかもしれないと、小学生の時から思い続けてきました。天気にも毎日変化があるじゃないですか。今日は曇りでも、明日は天気になるかもしれない。今日よりも明日、明後日。だから『明日も生きる』んです」

本間ちなみさん

2021年24日、警察庁は犯罪情勢統計を発表、2020年に児童虐待の疑いがあるとして全国の警察が児童相談所に通告した18歳未満の子どもは、過去最多の106960人(暫定値)としました。2020年は新型コロナウイルス感染拡大によって在宅時間が増えた年。今もなお影響が続く中、子どもの虐待の増加が危惧されています。

 

本間さんは話します。

 

「虐待に遭っている人、虐待をしている人が今もたくさんいると思います。打ち明けられずに悩んでいる人も多いでしょう。でも、自分から『助けて』と言える勇気をもってほしいです。どうか諦めないでほしい。私の時代はまだ児童虐待防止法(「児童虐待の防止等に関する法律」

)が施行される前だったからなのか、助けてもらえる土壌がなかった。でも今は、虐待に気づいたまわりの人が児童相談所に通報することが広く認識されているし、『助けて』と言えばきっと助けてもらえます。そうすれば、そこで生き方が変わってくると思うんです」
本間ちなみさん

児童相談所虐待対応ダイヤル 189

(※)「児童虐待の防止等に関する法律」(通称「児童虐待防止法」)は、1990年代に虐待が社会問題化したことなどを背景に、2000年11月に施行された。これにより、「児童虐待の定義」が、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育の放棄・怠慢)、心理的虐待と制定された。もともと日本には18歳までの児童の福祉を保障する「児童福祉法」(1947年制定)があり、虐待を見つけた際の通告の義務などが定められているが、「児童虐待の防止等に関する法律」の立法にともない、「児童福祉法」も一部改正された。その後、「児童虐待の防止等に関する法律」「児童福祉法」ともに改正。2020年4月には「改正児童虐待防止法」が施行され、親権者などによる体罰を禁止した。同時に施行された「改正児童福祉法」では、児童相談所の体制強化を定めた。

取材・文/高梨真紀 撮影/河内 彩
参考/警察庁「少年非行、児童虐待及び子供の性被害」https://www.npa.go.jp/publications/statistics/safetylife/syonen.html
厚生労働省「児童虐待の防止等に関する法律(平成十二年法律第八十二号)」https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/dv22/01.html
児童虐待防止全国ネットワーク「児童虐待防止法制度」https://www.orangeribbon.jp/about/child/institution.php