悲しみの感情を表に出さない。そんな子どもが大勢いた。
笑顔が増えてきたから、そろそろ元気になってきたはず。そう思われていた子が、突然学校に来なくなる。
「喪失の悲しみは、一生かかっても消化できるものじゃない。子どもたちと接していく中で、幾度もそれを思い知らされました」
東日本大震災の被災地で子どもの学習支援を続けてきた認定NPO法人カタリバの代表理事、今村久美さん(41)は、そう語ります。
岩手県大槌町で生まれ育ち、津波によって実家と祖父母を失った須田りかこさん(仮名・23)も、「そんな子ども」の一人でした。
18歳の妊娠・結婚「ろくでもない男だったら承知しない」と息巻いていた
りかこさんと今村さんの出会いは、カタリバが運営する放課後学校「コラボ・スクール」です。りかこさんは高校を卒業してすぐに、今村さんにある報告をしました。
「りかこが18歳で妊娠して結婚するって言い出したときは、とにかく心配でした。『相手がろくでもない男だったら承知しない』とスタッフみんなで息巻いていたくらい」
りかこさんが被災したのはその5年前、中学1年生のときでした。岩手県大槌町。津波とその後の火災による死者・行方不明者が1200人にものぼり、壊滅的な被害を受けた後の町で彼女は10代を過ごしました。
遺体安置所で見た顔が、今でも記憶に蘇る
震災発生当時、友人と一緒に一時避難したりかこさんは、その後に母親、姉と合流。母の運転する車で距離を稼いだ後、途中からは車を乗り捨てて走り、運良く津波から逃れることができました。
大槌町を襲ったのは地震と津波だけではありません。巨大津波が多数の火災を発生させたのです。
「避難先の体育館で、外の様子を見たくて扉を開けたんです。そしたら津波の水面がたくさんの炎を反射して、大きなひとつの炎のように見えて。近くまで火の粉も飛んでくるし、町からは爆発音が連続して聞こえてきて、『津波を生き残れたのに、火災で死ぬんだ!』と思いました」
その後、父の無事は確認できましたが、同じ町内に住む父方の祖父母と母方の祖母、3人の行方がわかりません。りかこさんは祖父母を見つけ出すために、毎日のように遺体安置所を訪れたといいます。
「最初はお顔にかけられた布をめくって祖父母かどうかを一人ひとり確認していましたが、ご遺体の数が激増したため、途中からはご遺体の顔写真を集めたアルバムを見て確認していました。怖さを感じたのは最初だけで、途中から抵抗感は消えていましたね」
住民の10人に1人が震災で命を落とした大槌町。遺体安置所の風景は、今でもりかこさんの脳裏に強く刻まれています。
「10年経った今でも、あのとき遺体安置所で見た、誰かもわからないご遺体のお顔をふと思い出すことがあるんです」
「一時的な支援で子どもの日常は取り戻せない」
震災直後、現地を訪れたカタリバ代表の今村さんは、甚大な被害を目の当たりにして「一過性の支援では子どもたちの日常は取り戻せない」と痛感。長期的に被災地の子どもを支援するための居場所づくりに奔走します。
「どんな環境に生まれ育っても、すべての10代が、未来をつくりだす意欲と創造性を育めるように」
今村さんがそんな理念を掲げて、「カタリバ」を立ち上げたのは震災が起こる10年前でした。
思春期の子どもが少し年上の先輩と「ナナメの関係性」を築き、多様な出会いと学びの機会を得ていく。
そこで培ったノウハウは、被災地でこそ必要だと考えました。現地の子どもたちを支援する「ハタチ基金(※)」の後押しを受けて、開校に結びつけました。
2011年7月には宮城県女川町に1校目が、同年12月には岩手県大槌町に2校目がオープン。避難所となっていた女川第一小学校の校舎や、町内の施設・神社の一角などを利用し、「放課後学校」を展開し始めました。
学習支援として紹介されることが多いコラボ・スクールですが、「学校の成績を上げることが第一ではありません」と今村さんは語ります。
「最大の目的は、子どもが安心できる心の土台をつくること。学習支援はあくまでも成長実感の度合いを測るツールに過ぎません。テストの点数を上げることよりも、子どもたちが安心して過ごせて肯定してもらえる、そんな居場所を目指しました」
中学時代は時々ふらっと行くだけの場所
りかこさんが大槌のコラボ・スクールに初めて足を踏み入れたのは、中学2年の冬。
「コラボの先生たちに勉強を教えてもらったんです。わからないところがあっても嫌な顔ひとつせずに丁寧に教えてくれるし、褒めるときはすごく本気で褒めてくれる。あ、勉強ってこうしたら伸びるんだな、と初めて思えました」
それでも、「中学時代はそこまで熱心に通わなかった」とりかこさんは打ち明けます。それはコラボ・スクールだけでなく、学校も同様でした。
「同級生が2人亡くなっていたこともあって、学校の先生方はすごく気を遣ってくれたんですよ。でも、震災後はなぜだか学校に通うのがすごく面倒になってしまって…。学校をサボって友達と遊んだり、家でぼーっとしたりする時間が多かったです」
転機となった「やくそく旅行」
登校をおっくうに感じたり、家でぼんやりする時間が増えたことが、震災の影響かどうかはわかりません。
ただ、そんな日々を送っていたりかこさんにとって、コラボ・スクールは時々ふらっと行ってみるだけの場所に過ぎませんでした。ところがこの位置付けを、大きく変える出来事が起こります。それが、中学卒業間際の「やくそく旅行」というイベントでした。
生徒たちが社会で活躍する大人たちとの出会いを通して「なりたい大人像」について考える5日間の東京旅行です。
「震災復興のために、いま私たちができることは?」
日常ではあまりに深刻で避けがちだった震災の話ですが、被災地で生きる自分の将来を考えるために、向き合わざるをえませんでした。
スタッフや同世代とたくさんの対話を重ね、りかこさんはいろんな人に会い、話を聞き、アウトプットするという「実践的な学び」の楽しさを実感できたと言います。
「目の前の課題に向き合って、みんなで話し合いながら、案を出し合って解決の道を探っていく。学びって、こんなに楽しいんだ!と生まれて初めて実感できました」
「友達以上、先生未満」ナナメの関係性の強み
スタッフとの距離感もぐっと縮まりました。
「学校の先生はいじれないけれど、コラボの先生は結構いじれた(笑)。でも、友だちに言えない悩みも相談できるときもある。友達以上、先生未満みたいなナナメの関係性だから話せることって結構あるんですよね。コラボの先生たちがそれを教えてくれました」 [video width="1280" height="720" mp4="https://chanto.jp.net/wchtp/wp-content/uploads/922f61bd8c0aa118d4db0369321a2f8b.mp4"][/video] りかこさんの言葉に、今村さんも深くうなずきます。
「私がカタリバを立ち上げたのも、ナナメの関係性が子どもの未来の可能性を開く鍵になると感じたからです。特に大きな災害が起きた後は、生活環境が変わったり親が忙しくなったりするため、精神的に不安定になる子どもが多い。そんなときでも、ほどよい距離がある相手だからこそ話せることもあるはずです」
初めての出産「誰かの生まれ変わりかもしれない」
「結婚します」
りかこさんがコラボ・スクールにそう報告したのは、彼女が通信制高校を卒業してすぐのこと。
「早くに結婚する友達も周囲には結構いましたから、気負いはありませんでした。家族からの反対も特にありませんでした」
当人はさらりとそう語りますが、18歳の若さで結婚するという決断を、当初、今村さんをはじめとしたコラボ・スクールのスタッフたちは揃って心配していました。
「でも実際に会ってみたら、すごく真面目な男性だったので安心しました」
りかこさんがパートナーに選んだお相手は、年上の団体職員の男性でした。結婚後、ふたりは大槌町の隣の山田町に新居を構え、りかこさんは無事に長男を出産します。
「息子と初めて対面したとき、『やっと会えたんだ』という気持ちが湧いてきたんです。私は、人は死んでも生まれ変われると思っているのですが、息子も“誰か”が生まれ変わってきてくれたのかな、という気が不思議としました」
「働く母」を目指したきっかけは
初めての育児に奮闘した1年を経て、息子さんは保育園へ入園。同じタイミングで、りかこさんは大手ドラッグストアの社員として働き始めました。
2019年には第二子を出産。今は夫婦で協力しながら、やんちゃな兄弟の育児に日々手を焼いています。
「幸いなことに周りの人には恵まれています。夫婦で協力しあえるし、両親や保育園の先生、職場の先輩ママたちの支えがあるから日々頑張れている。育児や家事の主体性を女性だけに求める風潮はまだまだありますが、もっとみんなが気軽に助け合える子育て環境が増えていってほしいですね」
ママになって5年目の現在、りかこさんは「子育てに親の年齢は関係ない」とあらためて感じているそうです。
「一番大切なのは、子どもにどう寄り添っていけるのかではないでしょうか。若いとか若くないとか、そういうことはまったく関係ないと私は思っています」
働きながら子育てをするという選択も、りかこさん自身の希望によるもの。
そう考えるようになったきっかけは、実は今村さんだったそうです。
「母が専業主婦だったこともあって、結婚したら女性は家庭に入るものとずっと思い込んでいたんです。でも久美さんは団体の代表をやりながら、コラボで私たちに教えて、お腹に赤ちゃんがいるときもやくそく旅行に付き添ってくれた。こんな生き方もあるんだって驚きでした。以来、私にとっては久美さんが“働く女性”のモデルなんです」
春が来ると草木が芽吹くように。ナナメの関係性によって積み重ねられた信頼は、りかこさんの人生の選択に大きな影響を与えていたのです。8年越しの“告白”を聞いた今村さんは驚きと共に喜びを語ってくれました。
「りかこがそんな風に私のことを見ていてくれたなんて、初めて知りました。ありがとう。出会ったときはまだ中学生だったりかこが、立派に成長して、お母さんとして頑張っている姿を見ることができて、すごく嬉しい」
あの頃の子どもたちが、ようやく語り始めた
多くの子どもたちを見守ってきた震災以降の10年間を、今村さんは自省も含めて振り返ります。
「私はあの震災を経験していません。家族を失った子が、友達が津波に流された子が、どんな気持ちなのか本当の部分はわからない。『わかったような口をきいちゃいけない』と自戒して接してきましたが、それでも言葉を間違えてしまう場面は何度もあったと思います」
一方で今村さんは、震災から10年という大きな節目が、マイナスに働きかねない風潮を危惧しています。
「10年目という大きな区切りの3月11日が過ぎて、3月12日になってしまったら。もうみんなあの震災を忘れてしまうのでは?今のメディアの報道を見ていると、そんな不安があります」
被災した子どもたちの人生は、あの日からずっと続いている。震災当時に0歳の赤ちゃんだった子は、ようやく10歳になったばかり。その事実をどうか忘れないでほしい。10年間、被災地を支援してきた今村さんはそう訴えます。
「10年目の今は、当時の小中学生だった子どもたちが大人になって、震災を自分の言葉で語れる段階にようやく入ったばかりです。だからこそ、この先もまだ継続的な支援が必要とされています」
祖母が伝えてくれたように、次は私が語り継ぐ
被災地で成長し、大人になったりかこさんも、「今だからこそ見えてきたこともある」と語ります。
「大切な人を亡くした悲しみは、口に出せる人と、出せない人がいる。そのことが大人になってようやくわかってきた。地元に残っている人ほど、つらさを口に出さずに踏ん張っているように私には見えます。私の父もまた、そのひとりかもしれません」
りかこさんの父方の祖母、つまりお父さんの実母のご遺体はいまだ見つかっていません。唯一の形見は、瓦礫の中から出てきた運転免許証だけ。「早く見つけてあげたい」と嘆く遠方の親戚とは対照的に、りかこさんの父は悲しみをほとんど表に出さないそうです。
復興に向かっていく町に生きているからこそ、つらさを表に出せない。
そんな大人たちの悲しみを感じ取りながら育ったりかこさんのような子どもたちが、大人になった今、震災を語り継いでいこうとしています。
「私に避難の大切さを教えてくれたのは、昭和三陸津波の恐ろしさを知る祖母の世代の方々でした。祖母の遺体はもう見つからなくても、今度は私が次の世代に震災の記憶を伝えていきたい」
今のりかこさんにはもうひとつ、目標があります。
「子どもたちがもう少し成長したら、カタリバのお手伝いを何かできないかなと考えています。10代の私がカタリバに居場所をもらったように、今度は私が居場所をつくる側にまわっていけたら」
取材・文/阿部 花恵 写真提供/ハタチ基金
(※)「ハタチ基金」は、2011年からの20年間、被災地の子どもたちに学び・自立の機会を継続して提供していくためにつくられた公益社団法人。「コラボ・スクール」は、その支援事業のひとつに選ばれている。