「あの日の夜、近所の人がみんないなくなりました」
10年前の3月11日。鈴木奈々さんが携帯から流れる緊急地震速報を聞いたのは、産休初日のことでした。
出産予定日を1か月後に控えていた身重の体。弱い陣痛を感じながらも、地元からの避難を余儀なくされた母子を救ったのは、被災地から200kmも離れた東京で立ち上がった助産師たちのプロジェクトでした。
大きなお腹と不安を抱え、東京へと急いだ未明の避難
朝から晴れやかな空が広がっていたあの日、鈴木さんは福島県いわき市で被災しました。
家具は倒れ一部の内壁もめくれ上がりましたが、義父母も、保育園に行っていた5歳の長男も、お腹の子も無事。ただ、翌日以降は東京電力福島第一原子力発電所の事故が大きな不安となってのしかかってきました。
「もちろん、すぐに避難したい気持ちはありましたし、東京で単身赴任している夫も『こっちに来たら?』と言っていました。でも、大きなお腹で5歳の長男と一緒に避難するのは無理だと思っていたんです」
そんな葛藤の中、鈴木さんを避難に踏み切らせたのは、3月14日夜の近所の人たちの一斉避難。そして「このままでは危ない」という義母の判断でした。
義父母とともに最低限の荷物を車に積み込み、東京に向けて出発したのは15日未明。それが、いつまで続くかもわからない避難生活の始まりでした。
「暖かい場所を用意して、妊産婦を守りたい」助産師の決意
鈴木さんが東京への避難を決断した頃、東京では被災妊産婦の受け入れ先を必死に探す助産師がいました。東京都助産師会副会長だった宗祥子さんです。
「津波に襲われた被災地で、妊産婦さんを守るために必要なのは、暖かくて安心して産前産後を過ごせる場所です。妊産婦さんが何らかの方法で東京まで避難することができれば、入院可能な都内の助産院で受け入れることができるのではないかと考えました」
一刻一秒を争うなか、震災の翌日には東京都助産師会として「東京里帰りプロジェクト」を発足。妊産婦さんを受け入れてくれる助産院を探しながら、事業に必要な資金調達にも素早く動き始めました。
人は、死ぬ。だからこそ、やりたいことをやり抜く
被災妊産婦を救うプロジェクトの発起人になり、スピード感ある動きで都助産師会を引っ張っていった宗さんですが、助産師になったのは44歳の時。公務員からの転身でした。
「31歳で初めて出産しましたが『こんなに幸せで世の中の人に申し訳ない!』と思えるくらい、人生で最も素晴らしい体験だったんです。その時の助産師さんもまるで神様みたいに思えて。なんていい仕事なんだろうって」
子どもを育てながら、一念発起して36歳で大学に入学。その後、さらに2人の子どもを妊娠・出産しながら8年かけて卒業し、44歳で念願の助産師になりました。
ところが、助産師となり松が丘助産院を開いたその年。3人の子どもを残して夫ががんで他界。42歳の若さでした。
「夫が亡くなって、あ、人は死ぬんだ、って実感したんですよね。おじいちゃんおばあちゃんが亡くなるのはわかるけど、42歳で死ぬなんて思わないから。それから、世界観が変わりましたね。いつでも死ぬんだったら、やりたいことをやらなきゃと思ったんです」
当時のことを思い出して涙を浮かべる宗さん。震災直後の迅速な行動の背景には、こうした経緯があったのかもしれません。
「本来、親子は愛し合って、気持ち良い関係を育むもの。生まれたら、抱っこして授乳して、危険から守る。そんな親子の原点とも言える貴重な時間が奪われてはいけないんですよ」
避難所から、妊産婦や赤ちゃんの姿が消えた
最初の妊産婦さんを受け入れたのは2011年3月30日 。宮城県仙台市から自力で避難し、25日に都内の病院で出産したばかりの産婦さんでした。赤ちゃんと一緒に助産院で養生する産婦さんから話を聞いているうちに、彼女の口から出た言葉が助産師さんを驚かせました。
「被災地では、赤ちゃん連れのお母さんや妊婦さんは、避難所ではなく車の中で過ごしているんです」
理由は、周囲への気兼ねや感染症のリスク。そのため、避難所を取りまとめている地元の自治体も妊産婦さんの現状をつかみきれず、プロジェクトの情報を妊産婦さんたちに届けることが困難になっていました。
東京の避難所でも、困っている妊産婦さんを探して助産師さんが避難所を訪ねても、妊産婦さんと会えない時期が続きました。個人情報の保護が理由です。助けを必要としている妊産婦さんに、どうやってプロジェクトを知ってもらうか ──。それが最初の課題でした。
4月12日、NHKのテロップでプロジェクトの情報が流れると、ようやく被災地から電話がかかり始めました。
「車の中で生活しているが、間もなくガソリンがなくなると暖も取れなくなる」「壊れた自宅の2階で過ごしており、避難所にいないので水や食糧を得るのも難しい」。電話の向こうから届く妊産婦さんの生の声は、切実なものでした。
一方で、「家族を残して自分だけ東京に行くことはできない」「地元にいたい」と、被災地に残ることを選択する人たちが多くいることもわかりました。そこで宗さんは、東京での受け入れと同時に、地元の助産師会などと連携しながら、現地の活動支援もしていくことを決意したのです。
当面の住居や家計、先行きがまったく見えない不安
東京に避難してきた妊産婦さんも、当面家族で生活できる場所や、上の子の保育園や学校、経済面、先が見えないことへの大きな不安を抱えていました。
ある産婦さんの夫は、地元での仕事を辞めて避難してきたため、深夜の工事現場で働いて生活を維持する日々。プロジェクトの受け入れ先となった助産院に産後入院するまでは、慣れない場所で頼る人もおらず、一人きりの育児に不安を募らせていました。助産院に来ても、ワンワン泣いている赤ちゃんを横目に放心状態の人もいました。
たくさんの遺体を目にしながら逃げてきた若い妊婦さんは「怖い。福島に帰りたい。東京は嫌だ。お産も嫌」と泣いてばかり。「自分だけ暖かい部屋でご飯を食べているなんて、被災地に残る人たちにはとても言えない」と、後ろめたさを感じていた人もいたと言います。
記事の冒頭で弱い陣痛を感じながら急ぎ東京へと避難した鈴木さんも、被災妊産婦の一人としてさまざまな不安を抱えながら東京で生きていました。
「結婚当初は都内在住で、1人目は東京で出産しました。そのつてを頼り、お腹にいた2人目もその病院でなんとか出産できましたが、新生児と5歳の長男も一緒に親戚の家で暮らすことには限界があったんです。とはいえ、避難生活での出費は思った以上に大きくて…金銭的にも苦しい日々でした」
そんな時、母乳トラブルのケアのために訪れた松が丘助産院で宗さんと出会いました。
「宗先生は初めて出会った時から、とにかく忙しそうでした。汗だくで帰ってきたと思ったら『寄付金をもらえるようになったよ』と話して、またすぐに出かけて行ったり。それでもいつもニコニコしていて、優しく声をかけてくれたのを覚えています。
私が親戚の家に滞在していることを伝えると、半年間無料で借りられる部屋をすぐに手配してくれたんです。おかげで家族だけのスペースで生活できるようになり、ずいぶん気持ちがほっとしたのを覚えています」
出産、産後の養生にとどまらず、その先の家族の生活を見据えた中で出てくる困りごとや不安を吐露でき、一緒に解決してくれる人が身近にいてくれることの安心感。
宗さんをはじめ関わってくれたすべての助産師さんは、被災妊産婦さんにとって、まさに東京の“お母さん”になっていったのでした。
「支えのない産後を、ドゥーラに助けてもらいました」
震災から1年が経っても支援を必要とする妊産婦さんはたくさんいて、避難生活もしばらく続くことが予想されました。そこで宗さんは、長期的に支援を継続することを決めます。
被災地で妊産婦さんを支える現地の助産師や団体の後方支援、東京での出産、産後入院の受け入れ。そして、頼れる人がいない場所で子育てをする産後のお母さんを支えるための、産後ドゥーラの派遣がその一つでした。
産後ドゥーラとは、産前産後の母親に寄り添い、支える人。まだ体をあまり動かさない方がいい時期に、新生児のお世話や食事づくり、洗濯、そして上の子のケアなど多方面からサポートしてくれる存在です。
福島の自宅に帰れずにいた鈴木さんも、避難生活3年目、産後ドゥーラに助けられることになりました。第3子となる長女を宗さんの松が丘助産院で出産後、産後の家事や上の子のケアをしてくれる人が身近にいなかったので、宗さんの勧めで産後ドゥーラの派遣をお願いしたのです。
「長男の時はいわきにいて4世代で暮らしていたので、たくさんの手と目がありました。避難して核家族になって、さらに子どもが増えて、とにかく手がたりないという毎日でした。車生活だったいわきでは買い出しもまとめてできましたが、自転車の前後に子どもたちを乗せての買い出しにもなかなか慣れなくて」
そんな物理的な忙しさの合間にふと浮かんでくる、今後の生活への不安。日々、ギリギリのところで頑張っていたところに産後ドゥーラとしてきてくれたのが、嶋津幸さんでした。
首から腰にかけてマッサージしてくれる彼女の手が本当にあたたかくて、不安に襲われている時や、赤ちゃんが泣き止まなくてどうしたらいいのか困り果てている時、「もうすぐ嶋津さんが来る!」と思うと、何とかそれまで頑張ることができたと言います。
一番覚えているのは、料理をしてくれている嶋津さんに「ちょっと疲れちゃって」とポロッと漏らした時のこと。「そういうのあるよね」と言って嶋津さんは料理をしていた手を止め、向かいに座ってじっくりと話を聞いてくれました。
「『せっかく来てくれたのに、私がしゃべって終わっちゃいましたね。すみません』と言ったら『話を聞くのも私たちの仕事だから』と言ってくれたんです。一人じゃないんだ、と思えて、孤独感がスッとなくなっていったのを覚えています。とても心強い存在でした」
どんな時も、家族を分断させてはいけない
出産、産後入院にとどまらず、妊産婦さんが困っていることを聞いては必要な支援を届け、寄り添ってきた宗さん。その活動期間は7年にも渡りました。
活動を振り返り、宗さんは「震災は本当に、家族を分断するような出来事だった」と語ります。
「当時、避難した東京で出産したり、産後しばらく滞在したお母さんたちの中には、被災地に残って働いている夫との間がギクシャクしてしまった方が何人かいました。離婚話にまでなって、夫が『妻をなんとか説得してくれ』と助産院まで来たこともありました」
出産前から産後までの大事な期間に家族が一緒にいられないことが、夫婦や家族間に影を落としてしまう姿を見てきただけに、宗さんは新型コロナウイルスで夫が検診や出産に一緒に行けない現状を危惧しています。
「夫婦で一緒に母体の変化について理解する機会がなくなっていることや、生まれたての赤ちゃんに会えない状況は、親子の絆をつむいでいこうとする人たちを分断するようなもの。早くどこの病院でも立ち合い出産ができるようになるといいのですが…」
そして「恩送り」が循環していく社会へ
先日も、大きな地震が東北地方を襲いました。いつまた、大きな災害が起こるかわかりません。でも、10年前と違うのは、何かあった時にすぐに動ける体制がだいぶ出来上がった、ということでしょう。
東京里帰りプロジェクトの活動を通して、妊産婦を支援する助産師らによる動きが全国各地で起こり、地域にしっかりと根づきました。自治体や国が産後ケアの必要性に目を向けるきっかけにもなりました。
そして、震災時5歳だった鈴木さんの長男は今、15歳。ラグビーをするために地元を離れ、茨城県筑波市の中学校に通っています。
「“困った人の役に立てる大人になりたい”という夢のために、まずはラグビーで心と体を鍛えたいと。東京で多くの人たちに身内以上に親切にしてもらい、心から寄り添ってもらった経験から『今度は自分が寄り添う側になりたい』と思っているようです」
人は、生まれるその瞬間から、誰かの支えがなければ生きていけません。そして、支えられ、助けられた人はまた、誰かを支え、助けたいと思うようになります。
助けられる側から、助ける側へ ── 。これからも「恩送り」が循環していく社会であってほしいと願います。
取材・文・撮影(宗さん分)/平地紘子