前回の「
」では、加倉井さんの自宅にご両親が同居する形で、育児と介護のダブルケアがスタートした経緯を伺いました。
ところが、この同居生活は1年半で幕を閉じます。そして介護のために仕事を辞めた加倉井さんには、別の意味での葛藤の日々が訪れることに──。
母のための離職のはずが…自分と家族を苦しめることに
──1年半の同居生活でのダブルケアを経て、お母さまは実家に戻られたそうですね。何が原因だったのですか?
加倉井さん:
実は、母は認知症がきっかけで「よそ様の家にお世話になって申し訳ない…」と言うようになり、次第に「自分の家に帰りたい」と涙を流すようになってしまったんです。さすがにこのままでは母がかわいそうだと思い、茨城に戻って介護保険サービスを使いながら父がめんどうを見ることになりました。
私はその後は月に1度茨城に通う生活を続けていましたが、2018年2月に母が亡くなり、いったん終わりを迎えました。
母が実家に戻ってからは、私自身の葛藤の日々でした。母の介護をきっかけに仕事を辞めてしまったわけですが、3人の子どもがいるのですから、このまま働かずにいるわけにはいきません。とはいえ、正社員時代と同等の条件での再就職は難しい。仕事を辞めて社会的な地位を失い、経済的な不安も募り、全てを失ったような気持ちになって、心のバランスを崩してしまった時期がありました。
さらに、同居で介護という慣れない環境に疲れてたせいか、夫ともギクシャクしてしまい、何もかもうまくいかないと感じていました。その頃は、涙して過ごす日も多かったです。
何もかもうまくいかない時に私を救った“マジックフレーズ”
──張りつめていた緊張の糸が切れてしまったせいもあるのかもしれませんね。その後、旦那さんとの関係はどうやって修復したのでしょうか?
加倉井さん:
考えてみれば、夫も慣れない生活に疲れているのだと気付き、感謝やねぎらいの言葉を増やすように意識しました。つまり、ポジティブな発言ですね。
再びいい関係が戻りはじめたと感じたのは、家の中で“ありがとう”が循環しはじめてから。コーヒーを出すとか、お茶碗を下げるといった些細なことでも“ありがとう”と、自然に伝え合えるようになりました。
「ありがとう」って、まさにマジックフレーズなんですよね。「こうしてもらえたら嬉しい、助かる」といった要望を伝える時には、相手をねぎらう言葉をかけてからお願いすることで、“戦いではないコミュニケーション”が家庭で繰り広げられていくんです。こうした積み重ねがプラスに働いていったのだと思います。
仕事を辞めるのは簡単だけど…本当にそれでいいの?
──早く気づいて関係修復できたことはよかったですよね。それにしても、良かれと思って仕事を辞めたことが、逆に加倉井さんを追い詰めてしまうことになるとは…。
加倉井さん:
よく企業研修で話すのですが、介護には3つの負担があります。それは、“精神的負担”・“身体的負担”・“経済的な負担”。仕事をやめて介護に専念すると、見かけ上はそれぞれの負担が軽減するように見えるかもしれませんが、それは大間違い。むしろ介護離職をするからこそ、この3つがどんどん重くのしかかってくるんです。
ですから、できるだけ仕事は続けて、専門家の手を上手に借りながら介護に関わるようにしてほしいと思います。介護には必ず終わりが来ます。終わった時点で、自分が経済的な不安を抱え、追い詰められ、孤立している状態は何よりも避けて欲しい。
私の場合、幸いにも仕事で関わっていた人たちに声をかけて頂き、講師活動に携わったことが起業に繋がりました。ですが、条件の整った職場に再就職するのは本当に厳しいことです。今の職場に不満がないなら、介護離職はしないこと。自分の人生を生きる道を閉ざさないことは大切です。
──近年は、働き方改革で介護離職の問題に取り組む企業が増えてきています。研修などで関わる際に感じる企業現場の雰囲気はどのような印象ですか?
加倉井さん:
自治体や上場企業では、介護に関する研修やセミナー、講演などを行うところが増えてきていますね。まだ介護に関わる状況にない社員にも早めに情報共有したいと、ハンドブックを作って配布する企業もあります。
とはいえ、実際に介護休暇や介護休業の制度を使っている人はまだまだ少ないのが実情です。「制度があっても風土がないから使えない」というケースは多い。だからみんな有給休暇を使っちゃうんですよね。介護が理由で休むのであれば、きちんと制度を使っていくことが大事です。自分だけでなく、周りや後輩のためにもなりますから。
自分の会社にはどんな介護の制度があるのか、人事や総務に聞いたり、ポータルサイトなどで調べてみるといいと思いますよ。
“プレ介護”の時期に心の準備はしておこう
──30~40代の働くママには、親の介護はまだ他人事と思っている人もいそうです。今からやっておいたほうがいいことはありますか?
加倉井さん:
ありますよ。大事なことは2つ。まずは、いざという時に備えて情報収集しておくこと。親が住んでいる地域の役場や市役所、あるいは地域包括支援センターに連絡して資料を取り寄せたり、話を聞いておくと安心感に繋がると思います。
2つ目は、親に自分たちの老後の暮らしをどうしたいのか、希望を聞いておくこと。これは本当に大事です。介護施設に入居して暮らしたいのか、家がいいのか、医療処置が必要な状況になったらそれを臨むのか、延命治療を希望するのか、お墓はどうするか。
あとは、親の交友関係を知っておくこと。ご近所とのお付き合いやサークル活動などですね。それと、大事な書類などがどこにあるのかも確認しておくといいですよ。これは意外とわからなくて困ってしまうケースが多いので。
こういったことを痛感したのは、父の死に直面した時です。実は、母が亡くなって約9か月後に、父が交通事故で亡くなってしまったんです。電話をもらって駆けつけた時にはICUで人工呼吸器をつけていて、すでに意思疎通ができない状態でした。
でも、父が元気な時にいざという時の希望を聞いていたことが不幸中の幸いでした。もし何かあったら困るからと合鍵を作っていたのでどうにか実家に入れ、書類などを確認することができました。
人生、何が起こるかわかりません。親が元気なうちから準備をしておくに越したことはないと痛感しました。
──それはお辛かったでしょうね。いざ介護に直面すると、心に余裕がなくなってしまうので、親が元気なうちにこうした準備をしておくことで、介護する側も追い詰められずに済みますね。
加倉井さん:
介護は「1人で抱えず、シェアすることがみんなの幸せにつながる」という考え方を持って欲しいと思います。自分はマネジメントする立場と考えるんです。親がどんな老後を望むのかを知り、専門家の手を借りながら環境をととのえていく、というイメージですね。
こうした人生の中で起きるライフイベントはマイナスなものと捉えがちですが、決してそんなことはありません。むしろ確実にプラスのキャリアになるものです。思うようにいかない出来事を経験することで、人の力を借りたり、マネジメントを学ぶ。
子育ても、介護も、リーダーシップの実地訓練のようなものです。実際「ダブルケア」は大変でしたが、そこから学ぶことはとても多く、今のキャリアに繋がっていると私自身も実感しています。
誰しもいつか親との別れを経験します。後悔しないように、元気な頃から温かなコミュニケーションを大切に過ごしてほしいと思います。
Profile 加倉井さおりさん
取材・文/西尾英子