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「人は見た目で判断してはいけないよ」

 

幼少期に親からこう言われて育った方は多いのではないでしょうか?そして自分が親になったいま、我が子にも同じく見た目で判断してはいけないことを伝えるはずです。

 

一方で私たちは普段から美しい人に憧れ、化粧をしたりおしゃれをしたりなど“人から見える自分の見た目”を気にしているのです。親からの教え、また我が子への教育方針とは相反するような自分の行動に、疑問を感じたことはないのでしょうか。

 

今回は見た目に関する差別を専門とする立教大学の矢吹康夫さんと一緒に、見た目で人を判断してしまう「ルッキズム」について考えていきたいと思います。

 

PROFILE 矢吹康夫さん

矢吹康夫

立教大学社会学部社会学科助教。差別や偏見に関する社会学を専門とする。著書に『私がアルビノについて調べ考えて書いた本――当事者から始める社会学』など。

外見に基づく差別「ルッキズム」とは

──「ルッキズム」という言葉を目にする機会が増えましたが、説明してと言われるとうまく言葉にできません。どういう概念何でしょうか?

 

矢吹さん:

一番単純な説明が「人を見た目で判断する差別」です。しかし「人を見た目で判断すること」だけでは説明は半分しかできていません。現代で人を見た目で判断することは避けては通れないですが、実はそれ自体が悪いわけではありません。問題は見た目を差別することです。つまり、本人の意思で変えることができないものを否定したり比較したりして、相手を評価し不当に扱うことですね。ルッキズムは特に顔や体型など外見に対する差別を指します。

「綺麗ですね」「かわいいですね」は褒め言葉ではなく差別の可能性がある

──「見た目で判断してはいけない」昔から言われていることですが、人を見て「綺麗だな」「かわいいな」と思うことも良くないのでしょうか?

 

矢吹さん:

私たちは日常生活の多くを視覚に頼っています。ですから、見た目で判断をすることについては仕方がないことです。また、人を見て「綺麗だな」「かわいいな」と思うこと自体は悪くありません。「あの人に比べてこの人はブス」とか「痩せている方がいいに決まっているのに〇〇さんは太っててみっともない」というように見た目で評価をし、比較をすることが良くないんです。

 

── 評価し比較するというところに問題があるんですね。「綺麗ですね」「可愛いですね」と思うこと自体は悪くないということですが、こういう言葉は相手を褒める挨拶のように使われることもありますね。

 

矢吹さん:

たしかにありますね。しかし、そもそも初対面で外見のことをいうことは失礼なケースもあります。考えてみてください。「綺麗ですね」「可愛いですね」と言ってくる相手のために、あなたは綺麗にしているんですか? 違いますよね。初対面で関係性が築けていない相手からそういうことを言われる時点で、性的な存在として扱われている可能性もあります。

 

また、感情表現がオープンと言われている海外では女性の容姿を褒める人が多いというイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実は海外の方が日本よりも「綺麗」「可愛い」などと初対面でいうことは少ないんですよ。

 

一方で、例えばアメリカでは魅力的な容姿の女性は採用されやすい、生涯賃金が上がるなどのデータもあるくらいです。相手を褒める挨拶の裏側には、差別が隠されているんです。

 

── 褒め言葉に差別が隠されているというのはどういうことでしょうか?

 

矢吹さん:

「綺麗」「可愛い」などと褒められているからいいじゃん、という空気がありますよね。そのせいで、不愉快に感じている人たちの気持ちを真剣に取り合ってもらえなくなるんです。

 

一見良さそうに見えてしまうからこそ、苦しんでいる人たちの存在がうやむやになってしまいます。「綺麗」とか「かわいい」と褒められてるんだから別にいいだろう、と思う人もいるかもしれません。実際、そういう空気感は未だに強く残っていますよね。しかしアメリカの採用や生涯年収の話からもわかるように、「綺麗」「かわいい」という言葉の裏には「魅力的な容姿をしている人はそうでない人より優れている」、逆に言えば「魅力的な容姿をしていない人は劣っている」と考えている人が多いという現実が隠れています。

 

また容姿ではなく能力で評価されたいと思っている人からすれば、容姿についてばかり言及されるのは気持ちのいいことではありませんよね。しかし、「褒められてるんだからいいじゃん」という風潮によって、容姿について触れられることが不愉快だという人の気持ちが無視されてしまうケースも。一見良いことのように見えてしまうからこそ、苦しんでいる人たちの存在がうやむやになってしまうんです。

日本の学校や企業からも反ルッキズムに向けた動きが出てきている

── ルッキズムをなくすために日本では何か活動は行われているのですか?

 

矢吹さん:

最近だと上智大学が1980年代から続くミスコンを廃止しましたね。これにはルッキズム問題だけでなく、ジェンダー問題(男女差別)なども関係しています。上智大学のケースでは、2020年からは外見や性別ではないもので審査する「ソフィアンズコンテスト2020」を開催しました。

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企業だとYahoo!などでもコンプレックスを煽るタイプの広告に関して動きがありました。例えば体型が太っている人が痩せる広告や体毛の濃い人が薄くなる、バストが小さい方が大きくなるなど広告が、コンプレックスを煽るという理由で規制されるようになっています。

 

── 型にはめられた「美しさ」や「醜さ」から少しずつ脱却しようとしているんですね。


矢吹さん:

美しい」や「醜い」の基準を社会や時代が決めてしまうことで、基準からはみ出る人たちが苦しみます。たとえ、直接誰かから言われたわけではないとしても、社会や時代が“美しい”の定義を決めてしまうこと自体、自分自身を否定されているのと同じですからね。

 「美しいものへの憧れ」と「ルッキズム」は違うと理解することが大切

── とはいえ、特に女性は美しいものに対する憧れが強い人が多いと思います。

 

矢吹さん:

美しいものへの憧れとルッキズムは混同してはいけませんよ。

 

難しい問題ですが、本人が好きでおしゃれをしている場合は、それをやめることはありません。あるいは、好きでおしゃれをしたり自分磨きをしている人に対して「それはルッキズムを助長している」と批判する必要もないです。

 

ただ、社会や時代が決めた美しさに収まらないといけない…と思ってしまうことは息苦しいと思います。美しさを追い求めることに対して「しんどい」と感じる必要はないんです。そう考えると、美しいものへの憧れとルッキズムの違いがわかりやすくなるのではないでしょうか?

 

──「美しくなりたい」という気持ちは大事にしていいんですね。しかし、長年気づかないうちに染み付いてしまったルッキズムからはなかなか抜け出せないように思います…。どうしたらいいのでしょう?

 

矢吹さん:

一様で個性のない美の基準に収まって、その基準をなんとか達成しようとする。まずはこの状況に「おかしい」と気が付くことです。

 

本来、美しさには個性や自由があるのに、残念ながらこの社会では「こういう顔や体型が美しい」という基準のようなものがすでにできあがっています。そのような社会的に決められたものだけが美しいと思うのをやめて、さまざまな美しさがあるということを理解することが、ルッキズムから抜け出すための第一歩になるはずですよ。

ルッキズムからの脱却がもたらす「生きやすさ」

── ルッキズムを知り、そこから脱していくということにはどんな意味があるのでしょうか? 

 

矢吹さん:

昔は家事をするのは女性が当たり前だったので、家電などのCMには当然女優や女性タレントが出ていました。しかし近年では男性のアイドルや俳優が登場して家事をするCMが増えましたね。その結果、家事は男女平等という風潮が生まれました。

 

ルッキズムの問題もこれと同じです。日常生活の“当たり前”の中に疑問を持ち、ひとりひとりが声に出していくことで、性別も見た目も関係なくみんなが暮らしやすい世の中になっていきます。もちろんすぐには変わりませんが、未来を担う子どもたちが過ごしやすい世の中になるといいなと思いますね。 

 

世の中には色々な美しさがあります。どうかあなたの基準で美しさを見つけていってください。

 

 

「美しさ」の基準が多様だということが当たり前になりつつある今。自分でも気づかないうちに抱いてしまっているかもしれないルッキズムと向き合い、感覚をアップデートしていく必要がありそうです。次回は子どもに無意識のうちにルッキズムを押し付けないために親としてできることについて考えていきたいと思います。

 

 

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取材・文/ひなたきこ  イラスト/Nib.
*1 ソフィアンズコンテスト2020(https://sophians2020.mxcolle.com/)