「児童養護施設ではまるで透明人間のように扱われました」。母親からの虐待、施設や学校でのいじめに直面し、生きる意味すら見失ったという松尾知枝さん。過酷な環境でも自分の人生を諦めず、未来を切り開いたのは、周囲の「当たり前」に疑問を抱き、常に自問自答して答えを導き出してきたからだったそうです。
母からの虐待で小学5年で児童養護施設に入った

── CA、タレントを経て起業し、現在、婚活・コミュニケーションコンサルタントとして活躍中の松尾さんですが、小学校5年生から8年間、児童養護施設で生活されていたそうですね。施設に入った経緯についてお聞かせください。
松尾さん:虐待ですね。母が精神的な病気を患っていて、普段から機嫌が悪くなると暴言を吐かれたり、髪を引っ張られたり、手をあげられることもありました。ある日、母から電気コードで叩かれ家を飛び出し、助けを求めたところ、隣りの家の人が保護してくれました。「さすがにこのまま家に帰らせるのは危ないだろう」と学校に連絡がいったようです。
その日は担任の先生の家にひと晩泊めてもらって、学校から児童相談所に通報がいきました。私の処遇について話し合いが行われた結果、児童相談所で2週間ほど過ごした後、そのまま養護施設に連れられてそこで暮らすことになり、学校も転校することになりました。ただ、私には何も説明がないまま環境が急に変わったので、何がどうなっているのか、混乱や不安が大きかったです。
── ご両親はどうなったのでしょうか。
松尾さん:母は私が施設に入ると同時に精神病院に入院となり、私が養護施設に入っている間は会うことはありませんでした。父は酒とギャンブルの問題を抱えていましたが、ときどき面会に来てくれました。
── 養護施設には何人くらいが暮らしていましたか。
松尾さん:ひとつの建物に、100〜200人くらいの子どもがいたと思います。男女別・年齢別に部屋やフロアがわかれている、都内でも最大級のキリスト教系養護施設でした。私はその中の大部屋で、同年代の子たち12人と一緒に暮らすことになったのですが、ひとりっ子で人見知りだった私にとって、突然の集団生活はかなり過酷なものでした。
施設の居心地がよかったかと聞かれると複雑ですが、家に帰りたくても帰れない、居場所を失ったら大変だというのは子ども心に感じていたので、どうにかやり過ごすしかなかったと思います。
ただ、実家がかなり貧しく、しっかりした食事は学校の給食だけだったので、施設のほうが栄養のある食事が常にできました。洋服も、好きなものは買えませんが、きちんと支給されました。
── 子どもながらに自分が置かれた環境を察していたのですね。生活の指導には職員の先生が当たられるのですか。
松尾さん:はい。職員の方々を「シスター」と呼んでいましたが、日常のルールは非常に厳格でした。放課後の寄り道も許されず、駄菓子屋に行くだけでも外出申請が必要なほど。また、シスターは問題行動を起こす子にどうしても目が向くため、私のようなおとなしいタイプは「手のかからない子」として透明人間のように扱われていました。
他の子と比べて、私は先生やシスターとの距離感は少し遠いのかなと感じました。でも新しい環境になじむのに必死だったので、それ以上にもっといい対応をして欲しいと思うことすら私にはワガママすぎる理想だと思ったので、意図的に感じないようにフタをしていたと思います。