東京パラリンピックで注目されるようになった車いすバスケットボール。当時、指導者として大きく貢献した京谷和幸さんは、かつてJリーガーとして活躍を期待された選手でした。愛する人との結婚も控え「これから」というある日、ひとつの事故で人生が一変します。
会社の同期だった妻にひと目惚れ

── 京谷さんは、学生時代にサッカーで活躍された後、1990年に古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入社。奥さんは会社の同期だそうですね。
京谷さん:僕が古河電工に入社した1年目の春、社内の運動会で出会いました。妻は当時、バレーボールをしていてスラリと背が高くて。女性が何人かで集まっている場所でも、みんなから頭ひとつ飛び抜けて目立っていました。その時点で「きれいな人がいるなぁ」と、妻のことが気になっていたんです。
僕は、その運動会のイベントで、うさぎの着ぐるみを着て、子どもたちをあやしながら風船を配っていました。そうしたら彼女が近寄ってきて、「中に入ってるの誰?」って聞いてきたんです。その言い方を聞いて、僕はてっきり先輩だと思って。直立不動で「新人の京谷と申します」と丁寧に答えてしまって。
そうしたら、妻は「私たち同い年なのに」ってケラケラ笑ったんですよ。どうやら、着ぐるみの背中のチャックが少し開いてて、僕が着てたサッカーのユニフォームが見えてたみたいで。背中に「KYOYA」って書かれてるのを見て、中にいるのは同期の京谷だなと知りながら声をかけてきたようです。その日から僕は、明るくてはっきりした妻の性格にどんどん惹かれていきました。そこから妻には3回も告白してはフラれることになるんですが…。
── 3回も告白するとは、よほど奥さんへの気持ちが強かったんですね。
京谷さん:そうなんです。1回目は、大勢での食事会の後、妻と話ができなかったことで、どうにかして話すきっかけがほしかったので、「食事でも一緒にどうですか?」と手紙を書いて、彼女と同じ部署の先輩に渡してもらいました。でも、何日たっても返事がなくて…。もう後には引けないと思って、友達から妻の電話番号をなんとかして聞き出し、直接電話をして2人で会う約束をとりつけたんです。でも、当日、彼女の態度はそっけなく、別れ際には「友達でいようね」と言われてしまいました。
3回目は、直接電話をして、オランダ遠征のおみやげを渡すことを口実に会ってもらったのですが、彼女から好きな人がいると打ち明けられて。でも、どうしても諦められなくて、4回目の告白をしたところ、なんとうまくいったんですよ。というのも、当時、彼女はフラれた直後だったんです。そんな傷心のタイミングで、僕がスーッと心の中に入っていった感じですかね。
結婚式目前で起きた事故
── プロ契約するために入社した古河電工で、1991年、正式にジェフユナイテッド市原・千葉との契約を結び、プロサッカー選手へ。1993年5月にはJリーグが開幕しました。しかし半年後、交通事故に遭われたと伺いました。
京谷さん:Jリーグが開幕した1993年は、僕にとって、ケガからスタートした1年でした。その影響もあって、開幕当初はトップチームに上がれず、気持ちが腐りかけていたんです。でもその後、挽回してトップチーム入り。「ここから這い上がる」と思えた矢先に、再び、メンバー外になってしまった。「もうどうでもいいや」と投げやりな気持ちになるまで、当時は落ちこみましたよ。
まだ22歳だったから、精神的にも幼かったんですよね。ちょうど妻との婚約を控えていて、それは支えになっていたものの、同時に、結婚後の生活費のことや将来のことなどが一気に自分の肩に重くのしかかってきて…。その年の11月に事故を起こしたんです。
事故が起きたのは、結婚式の衣装打ち合わせの日の朝でした。僕は、前日から仲間の家で過ごしていたんですけど、打ち合わせの場所や時間は、僕が先に住んでいた新居の電話の横にメモをしたままにしていて。メモの中身を忘れてしまったので、場所と時間を確かめて準備をするために、早めに新居に戻ったんです。
まだ明け方であたりは暗くて、雨が降っていて。車を走らせていたら脇道から車が出てきて、それを咄嗟によけようとハンドルを切ったら、助手席側から電信柱にぶつかったんです。その後は救急車で病院に運ばれたようです。というのも、意識を失っていたから、事故前後の記憶がまったくなくて。気づいたら、病院の長椅子に座っていました。
病院に運ばれた日に、手術をして集中治療室へ
── 命があったことが奇跡だと言われるくらい、大きな事故だったそうですね。
京谷さん:電柱にぶつかった瞬間、とっさに踏ん張ったのか、手とすねにかすり傷がありましたが、それ以外の外傷はほとんどなくて。最初、見た目だけでは大怪我を負っているとはわからなかったと思います。顔にもほとんど傷がなくて、きれいだったんです。救急車で病院に運ばれたときも、その場に立てていたので、恐らくそんなに大事になっているとは誰も思っていなかったんじゃないかな。
病院に運ばれてしばらくして警察の方が来て、立ったまま状況説明などをしていました。ところが、肋骨が折れているのかなってくらい左のわき腹が次第に痛くなって。あまりに僕が痛そうにしているから、警察の方が「とりあえず座って話しましょう」と言ってくれたところまでは覚えているんです。でも、それ以降の記憶がいっさいないんです。次に目を覚ましたときには、病室のベッドで寝ていました。
当時は気づいていなかったけれど、そのとき僕は、アスリートとして一番致命的な脊髄の大怪我を負っていたんです。病名は、第5・第6胸椎圧迫脱臼骨折。第5、第6の胸椎が折れ、どちらかが脱臼していたので、脱臼した骨が脊髄神経を圧迫している状態だったそうです。
病院に運ばれたその日、レントゲン室で検査をした後は、折れてくだけた骨を取り除く手術をし、しばらく集中治療室で過ごしました。担当医師は、きっと手術で脊髄の状態を目の当たりにして、予後の悪さを予想していただろうと思います。手術後も肋骨や背中の激痛は取れずしんどかったですね。2〜3か月入院した後、リハビリ専門病院に転院して、さらに3か月くらい入院しました。