日本体操界で天才少女と呼ばれた鶴見虹子さん。全日本選手権6連覇、北京、ロンドンと二度のオリンピック出場した輝かしい経歴からは順風満帆なエリート街道を歩んできたように見えます。しかし、オリンピックの舞台を降りた彼女には輝きとは違う、現実的な日々と静かな再出発が待っていました。
「辞めたい」と毎日思うほどの練習重ねた

── 現役時代は二度のオリンピックに出場していますが、幼少期から多くの時間を体操に捧げてきたのではないでしょうか。
鶴見さん:小学校時代がいちばんすさまじかったですね。学校が終わるとすぐ体育館へ向かって16時半から22時過ぎまで練習。帰宅したら倒れるように眠り、翌朝また学校へ行く。その繰り返しでした。今振り返っても、あの時期が練習量のピークでした。
── そんなハードな練習が続いて辞めたいと思うことはありませんでしたか。
鶴見さん:毎日思っていました(笑)。練習はすごく厳しかったですし、毎日泣きながら帰宅することもありました。そういうときは母に「辞めたい」と愚痴をこぼしていましたが、それを否定しない代わりに「せっかくここまで頑張ってきたのに、今までの努力が水の泡になるね」と言われるんです。子どもながらに「たしかに、今辞めるのはもったいない」と納得させられてしまって。
── 14歳で全日本選手権初優勝し、その後、6連覇。その間の重圧は想像以上のものだったのではないかと思います。
鶴見さん:最初の3連覇までは無我夢中でしたが、それ以降は周りからも「勝って当たり前」という見られ方でしたね。優勝しても先生は褒めてくれない。逆に予選で2位になっただけで、すごく機嫌が悪くなる。勝利は喜びではなく、恐怖からの解放に変わっていきました。
── 当時、鶴見さんは目標をどのように設定していたんですか。
鶴見さん:父の教えが大きかったんです。小学6年生のときから毎年1月に「1年間の目標」を書かされ、それをリビングに貼っていたんです。1月は何、2月は何、と具体的に。そして最後に父が「鶴見」という印鑑(判子)を押す。これが自分自身との約束でした。「中1でナショナルチーム入り」「高1で北京五輪」。不思議なことに、判子を押された目標はすべて現実になりました。逆算思考と可視化の重要性を私は父から叩き込まれたところですね。
オリンピックは夢ではなく「責任の終着点」
── 10代の頃はどのようにモチベーションを保ちながら練習に臨んでいたのですか。
鶴見さん:女子の体操選手はだいたい10代にピークがきて、しかも選手生命も短い。実は中学1年の時点で「北京オリンピックが終わったら辞める」と決めていました。あと4年頑張れば解放されるというカウントダウンだけが支えでした。それがあったから、きつい練習にも耐えられたと思います。当時の私にとってオリンピックは夢というより「これだけ熱心に指導してもらっている以上、行かないと許されない場所」という責任の終着点だったんです。
── 結果としてロンドンオリンピックまで現役を続行されました。また4年先の目標に向かうことができたのはなぜでしょうか。
鶴見さん:北京オリンピックで陶暁敏コーチを夢の舞台に立たせるという最大の恩返しができ、一度は達成感で満たされました。でも当時は大きな怪我もなく、周囲の期待から「辞める」と言い出せる雰囲気ではなかったんです。ロンドンまでの4年間は、北京までの10年に比べれば短く感じましたし、精神的にも少し余裕を持って取り組めました。
── 結果的にアキレス腱断裂のケガが引き金となり、ロンドン五輪後の2015年に23歳で現役を引退されました。
鶴見さん:23歳は潮時という空気でしたけど、今の医療やコンディショニング技術があればもっと続けられたと思います。今は微電流治療器やサプリメントが進化し、回復速度が劇的に上がっています。私のアキレス腱断裂時はギプスで3か月歩けなかったのが、今なら1か月で歩けるようになる。26歳を超えてもトップを走っている今の選手を見ると正直、羨ましくもありますね。でも、短命さへの自覚があったからこそ、一瞬に賭ける集中力が磨かれたとも言えると思います。
── 引退後、指導者になろうとは考えませんでしたか。
鶴見さん:18年間体操を続けてきたので、さすがに週6で体育館に通って指導するような生活はもう十分かなと思ったんです。新卒で入った会社では体操教室の立ち上げに携わりました。将来きっと役に立つだろうという気持ちで取り組んでいたんです。小さな子どもたちを見たりしながら、イベントや外に出る仕事のほうにも興味があって、当時はそちらをやりたい気持ちが強かったんです。