忙しいから立ち止まる。その結果が、大きな運命に導かれることがあります。東京とパリ五輪の2大会連続で卓球女子団体で銀メダルを獲得した平野美宇選手の母・真理子さんも、そんな不思議な巡り合わせを経験したひとりでした。(全4回中の4回)
テニス部に入るつもりが卓球部に入部することに
── 真理子さんは、東京オリンピック・パリオリンピック卓球女子団体銀メダリストの平野美宇選手のお母さまです。真理子さん自身も卓球に取り組んでいたそうですが、卓球を始めたきっかけを教えてください。
真理子さん:中学時代、たまたま友だちに誘われて見学に行ったのが卓球部でした。当時は『エースをねらえ!』が流行っていて、テニス部に興味があったんです。でも、部員が多くて1年生は球拾いとランニングだけ、しかも弱いと聞いて…。負けず嫌いなので「やるからには強くなりたい」と思っていたところ、はじめて見た卓球にひと目ぼれしました。私にとってはコートの小さいミニテニスのように感じたんです。
入部した卓球部は楽しくて、私なりに一生懸命頑張っていました。休日は市民体育館で練習をして、地元・沼津市の大会で優勝もしました。高校進学後も卓球を続けたところ、人生の恩師とも言える素晴らしい顧問との出会いがありました。この先生のおかげで、進路が大きく変わりました。
── どのような影響を受けたのでしょうか?
真理子さん:私の夢は小学校の先生になることでした。これまでお世話になった先生はみな素敵で「私もこうなりたい」と憧れていたんです。だから、地元にある静岡県の教育大学が進学希望でした。ところが、顧問の先生が「ずっと地元にいると世界が狭まってしまう。全国から学生が集まる大学に進学して視野を広げ、教師として戻ってきてほしい」と、アドバイスをしてくれました。
恩師に背中を思いきり押されましたね。そこで、恩師の出身校でもある筑波大学への進学を決めました。筑波大学は小学校教諭免許を取得できなかったので、まずは中学・高校の体育教諭の免許を取り、卒業後に通信教育で小学校教諭免許の勉強をすることにしました。
「向き合って寄り添う」特別支援学校は天職だった
── 大学卒業後はどんな進路を選びましたか?
真理子さん:静岡県の中学校体育教諭に採用され、初任のときに研修交流として特別支援学校に配属されました。天職かと思うくらい大好きな仕事でした。特別支援学校では、重度障害があるお子さんの担任となりマンツーマンで向き合いました。ご家族とも連携を取っていくため、深いつながりを感じられました。こうした関係を築くのは私の夢でした。
もともと小学校の先生になりたかったのは、生徒と「深い心のつき合い」をしたかったから。ただ勉強を教えるだけではなく、一人ひとりに寄り添い、心の成長の手助けをするのが理想でした。特別支援学校では生徒ときちんと向き合うことができて、イメージしていたような関係を築けて、当時は本当に楽しかったです。
3年間、特別支援学校で働いたあとは中学校の支援学級の教諭として勤務し、その後、小学校教諭となりました。幼いころからの夢だった小学校の先生は毎日めまぐるしくて大変でしたが、やりがいがありました。子どもたちとは「心のふれ合い」なんて美しいひと言では語れない「心と心のぶつかり合い」の毎日でした。当時の教え子や同僚の先生、特別支援学校の生徒や保護者の方たちとは、いまでも連絡を取り合っているんですよ。