落胆する宇津木さんを励ました落合博満監督の言葉
── アテネオリンピックでも、銅メダル獲得と大奮闘でしたね。
宇津木さん:アテネオリンピックの前年は、SARS(重症急性呼吸器症候群)が流行し、国際大会が相次いで中止されたため、オリンピックに向けた「国際経験」を積むことは叶いませんでした。しかし、選手全員がやるべきことをやったことで、メダル獲得に繋げられたと感じています。
ただ、私自身「金メダル」にこだわっていましたし、周囲からもお叱りを多くもらい、反省が残る大会となりました。大会直後は、協会の役員に挨拶すらしてもらえないこともあり、「頑張った選手に『ご苦労さま』すら言えないのはなぜか」と言い返したこともあるほど。
アテネ後の沖縄キャンプで、当時、中日ドラゴンズの監督だった落合博満さんにお会いしたとき、「銅メダルを取ってもダメなんですね」と話したら「世界で3位だぞ、なんでそれがダメなんだ!」と励まされてしまいました。
── オリンピックでの監督経験から得たものは何ですか?
宇津木さん:オリンピックでの経験は、周囲からの期待と責任の大きさを実感する機会となりました。また「環境が変わっても、自分を変えてはいけない」ということも学びました。
シドニーで銀メダルを獲ったことで、アテネへの期待が高まり、練習中にテレビ取材が入ることも増えました。「いつも通り」にしているつもりでも、どこかでカッコつけてしまい自分を見失っていたのかもしれません。そのことが、日々の練習に影響してしまったのでは、と考えることがあります。以前のように、バットを振り回して大声を張り上げて指導していたら、アテネではあるいは…と。
ただ、オリンピックでメダルを獲ったことで、ソフトボールをやっていない人からも「感動をありがとう」という言葉をたくさんもらうことができました。私は現役時代から「ソフトボールをメジャーにしたい。もっと認めてられる競技にしたい」という思いを強く持っていたので、その点では貢献できたのかなと感じています。
PROFILE 宇津木妙子さん
うつぎ・たえこ。1953年、埼玉県で生まれる。1972年に日本リーグ1部のユニチカ垂井に入団後、日本代表選手として世界選手権に出場。1985年に現役を引退。ジュニア日本代表コーチを経て、実業団チーム・日立高崎の監督に就任し、1部リーグ優勝チームへと育てる。その後、日本代表監督に抜擢され、2000年のシドニー五輪では銀メダル、2004年アテネ五輪で銅メダルを獲得。2004年には、日本人では初めて国際ソフトボール連盟に指導者として殿堂入りを果たす。現在もソフトボール界の普及活動に尽力している。
取材・文/佐藤有香 写真提供/宇津木妙子