もし周囲にがんを患った人がいたら、どう声かけをすればいいでしょうか。当事者との距離感にとまどったり、その背中を押そうとしたり、人はさまざまです。29歳でがんになった水田悠子さんの周囲で起きたがんサバイバーへの言葉は、学びのあるものでした。(全3回中の3回)

「家族へのがん告知」泣かずに受けとめた両親に救われた

(株)encyclo代表取締役の水田悠子さんは、(株)ポーラで働いていた29歳の時に子宮頸がんが判明しました。当初はがんではないだろうと考え、ひとりで検査結果を聞きに行った水田さん。ショックを受けながら帰宅し、家族に結果を伝えました。母親は、冷静に「そう、治すしかないわね」。この力強い言葉に、水田さんは救われました。

 

「家族にがん経験者が多かったので、私までがんになって、両親に泣かれたらどうしようと恐れていましたが、ホッとしました。代わってあげたいなどと言われたら、いやだなと思っていたので。でも両親も陰では泣いていたと思います」

 

一方、友人にがん罹患について話すと、いろんな反応がありました。水田さんは、気兼ねなくオープンに話したのですが、なかには思わぬ反応も。

 

「こちらは話してすっきりなんですが、どう対応してよいのかとまどう人もいますよね。ひとり、気が動転して『あの病院は、同じ病気で芸能人が亡くなった』と言った友達がいて、けんかして絶交。治療後に仲直りして笑い話になりましたが、私の話がショックを与えてしまったんですね…」

 

友人たちは、さまざまな言葉で水田さんを励ましてくれました。

 

「『死なないで』とまっすぐに言う人、返事不要のメールで日記のように毎日メッセージを送ってくれる人…。いろんな形がありましたが、みんな私を心配してくれているのは伝わってきました」

 

ある友人は、手術や抗がん剤の入院のたびに、漫画を差し入れに来てくれたそうです。

 

「当時は、スマートフォンで手軽に漫画が読める時代ではなく、病室のテレビもカード式で不便だったため、漫画の差し入れは大変重宝しました。『1週間の入院中、暇でしょ』と、30巻くらいのセットを毎回入れ替えに来てくれました」。『ちはやふる』『20世紀少年』などいろんなジャンルで、元気が出る内容だったのでありがたかったです」

元彼の家族から言われた言葉に「しっかり生きよう」と

最初に受診を勧めてくれたのは、当時つき合っていたパートナーでした。ちょうど29歳、まわりが結婚し、水田さんも結婚を視野に入れていたため、自分の病気が相手の人生を変えてしまうのではないか、と重く受けとめました。しかし、パートナーも水田さんを励まし、力になってくれました。

 

水田さんは、妊娠の可能性を残すべく卵子凍結も考えましたが、がん治療開始が遅れるリスクや、日本では卵子提供による代理出産は法的に認められていないことなどを考慮して断念し、子宮を摘出しました。そして、子どもが産めない事実と、恋愛や結婚について深く考えました。パートナー自身は経過を知っているので話はしやすいのですが、とくに彼のご両親のことが気になりました。結局、手術当時のパートナーと結婚することはありませんでしたが、そのお父さんからの言葉が一生忘れられません。

 

「パートナーのお父さんが、『一病息災という言葉がある。ずっと元気だった人よりも、ひとつでも病気を経験したことのある人の方が身体の大切さを理解し、健康に気をつけて生きる。お前(当時のパートナー)にはそれぐらいしっかりした人がいい』と彼に言ってくれたんです。自分の人生を肯定されたように感じて、しっかり生きていこうと思いました。苦しいときにかけていただいた言葉によって、世の中には人に愛を届けてくれる人がたくさんいる、と気づきました」

 

さらに手術から数年たち、がんを経験した女性たちと話をするなかで、結婚についてだんだん考えがまとまりました。

 

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「同じように病気をしても、結婚する人・しない人、子どものいる人・いない人さまざまです。私の現実を相手に受け入れてもらえるかは、自分ではどうすることもできません。一緒になりたい人がいたら受け入れてもらえるように、自分が素敵な人間になろうと思いました」

 

その後、水田さんは、共に生きるパートナーを得ます。闘病も術後についても、知っている人でした。

 

「以前は、自分は結婚して、子どもをもうけて仕事と両立して生きていくと当たり前のように考えていました。でも、子どもを持たない人生をどうやって生きようかと考えたとき、人生の喜びや悲しみをシェアできる相手がほしくなりました。結婚、同居どのような形をとるかはその時の状況によりますが、人生をともにできる人が必要だと感じたのです」

闘病後「息をしているだけで素晴らしい」と思えるように

がん闘病を経て、水田さんの仕事における姿勢も変わりました。

 

「以前は、できないことを人に知られたくない、弱みを見せられない、と考えていたのですが、復帰後は『できないことはできない』と自分を受け入れ、素直にまわりに頼れるようになりました。職場は優秀な人が多いので、仕事でコンプレックスを感じてしまって、昔はとにかく頑張ろうとしていました。いまは、できないことを頑張ろうとしてもムリなので、まわりに素直に『助けて』と言えるようになりました」

 

復帰後も後遺症のリンパ浮腫に悩みながら、水田さんは自分の経験を仕事に活かす道を模索しました。やがて社内ベンチャー制度によって、同じ悩みを持つ人たちに向けて、自身が毎日履きたいと思える弾性ストッキングを開発し、現在に至ります。

 

さらに、プライベートでも考え方が変化しました。

 

「闘病中や直後は、生き延びることに必死で目の前のことをやるしかないので、こうするべきだ、という気負いがなくなりました。もはや息をしているだけで、すばらしい。その時々にできることを精一杯やれば100点じゃないかと思えるようになったんです」

 

手術後、普通の生活に戻り、五感などでも世の中が違って見えました。

 

「無事に戻ってこられて、世の中すべてに感謝の気持ちが芽生えました。とくに、抗がん剤治療中は副作用により、味覚に変化が起きてしまうのですが、副作用がおさまり1週間経つと、世の中が美しく見え、食べ物のおいしさをかみしめました。『冷やし中華がおいしい!麦茶はこんな味なんだ!』と、いちいち感動していました(笑)」

 

また、自分にとって本当に大切なものが何かもわかったそうです。

 

「20代のころは、仕事、旅行、遊びと予定をつめこんでいましたが、つきつめると健康と家族以外は何もいらない、と思えるようになりました。極限状態を経験し、一番大切なものを見つめられたのは貴重でした。まだまだ、煩悩にまみれていて、欲は出てきますが(笑)」

 

29歳でがんが発覚した水田さん。彼女のような経験をした人は「がんサバイバー」と呼ばれますが、その素顔は迷いや悩みをあわせもちながら、前に進み続ける女性でした。

 

PROFILE 水田悠子さん

みずた・ゆうこ。東京生まれ。2005年(株)ポーラに入社し、販売現場や、新商品の企画開発を経験。2012年29歳のときに、子宮頸がんを罹患。1年あまり休職して治療に専念した後、同職場に復帰。2018年よりグループ内のオルビス(株)に異動後も商品開発に携わる。2020年5月、ポーラ・オルビスグループより(株)encycloを創業。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/水田悠子、(株)encyclo

※「MAEE」の正式表記は、2番目のEの上にアクセント記号がつきます。