医師としてメディアでも活躍するおおたわ史絵さん。亡くなったお母さんとは絶縁状態だったと明かします。小さい頃から薬物依存症だったというお母さんとの関係は──。(全2回中の2回)

鎮静剤から母が薬物依存症に

── 小さい頃はどのようなお子さんだったのでしょうか?

 

おおたわさん:3歳の頃までの記憶はあまりありませんが、楽しく過ごしていたような気がします。小学生の頃は太っていて引っ込み思案。積極的に発言するようなタイプではなく、友達は3人くらいしかいない、どちらかというと冴えないタイプでした。

 

父が医師だったため、物心ついた頃から、周りには医師になると思われていた気がします。気づいたら自分の前には医師になるためのレールが敷かれていて、そのレールに乗るのがいいと思っていました。私は父のことが大好きだったので、きっと医師になったら父が喜んでくれるだろうという気持ちはありましたね。父から「医師になりなさい」と言われたことはありませんでしたが、「やりたいならやりなさい」と応援してくれて。勉強も好きだったので、進んでしていました。

 

おおたわ史絵さん
おおたわ史絵さん

── 医師になることについてお母さんはいかがでしたか?

 

おおたわさん:母は私に医学部に入ってほしいと思っていたようで、小学生になった頃から教育熱心だったと思います。母は盲腸がこじれてしまったせいで、昔から腹痛が起きやすい体質でした。痛みを抑えるためにオピオイドという鎮静剤を注射していたのですが、私が中学生の頃からだんだんと鎮静剤に依存するようになってしまい…。母は元看護師だったため、注射を自分で打つことができるし、家が病院なので薬も手に入ります。気づくと薬物依存症になっていたんです。

 

思い返してみれば、中高生の頃から、わが家のリビングには注射器や薬品を入れるガラス製容器のアンプルが転がっていました。でも、他の家庭とくらべる機会がないし、うちは病院なので、当時はおかしいとは思いませんでした。でも、母と一緒に外出すると、薬が切れたせいで急にイライラし出し、怒ることが多くて…。だから長時間出かけることはできなかったし、顔色をうかがってヒヤヒヤしていました。お酒やタバコの依存症と同じで、薬が切れるとイライラしてしまうんですね。でも一番苦しいのは本人。止めたくても止めることができないんです。

 

── お父さんはどのように感じていたのでしょうか?

 

おおたわさん:父も薬を渡さないように努力はしていましたが、母が父に暴力をふるって注射器を奪ってしまうんです。当時は専門外来などもほとんどなく、なかなかうまくはいきませんでしたね。でも、父は母のことが大好きでしたし、母も父なしでは生きていけなかったと思います。

母を変えるのは難しいと考え方が変化

── おおたわさん自身は高校卒業後、医学部に進学されましたよね。

 

おおたわさん:大学生の途中から実家を出て下宿に入り、家族と距離を置きました。大学卒業後は研修医としてひとり暮らしをして、27歳で結婚。そのため実家では暮らしておらず、また忙しさで自分もギリギリだったため、母のことは見て見ぬふりをしていました。父はその間も母とふたりで暮らしていましたが、母の容態は悪化。私も医師となって学んでいくなかで、やはり自分の家はおかしかったのだと気づきました。その頃には少しずつですが薬物依存を扱う専門外来もできてきていて。それである日、母のことを相談しに行ったんです。

 

── そこで治療を受けることに?

 

おおたわさん:それが、医師に勧められたのは、母ではなく私と父が入院することでした。私と父がすでに正常な状態ではないので少し離れて休みなさいと、山奥の施設に行くことになったのです。そこは依存症の家族を入院させる施設で、グループミーティングを毎日行いました。自分の話もしますが、いろいろな人の話を聞くことで、このような悩みがあるのは自分だけではない。同じような人がいるのだと知ることで、心がグッと楽になりました。そこには1〜2週間ほど滞在しましたが、父も私と同じように感じたみたいです。

 

夫と愛犬と一緒に
夫と愛犬と一緒に

── 退院後はなにか変わりましたか?

 

おおたわさん:「母に薬を止めさせなければ、母を変えなければ」と思わなくなりました。母を変えるのは難しいんだと、考え方が変わったんです。この頃になると、母の呼吸が止まりかけて救急車で運ばれることもあったため、父は薬の入荷を止めて母の手に渡らないようにしていました。

 

その後に父が亡くなってしまい、母は薬物の代わりに今度はテレビショッピングの買い物依存症になったんです。買い物依存症は、そのもの自体がほしいわけではなく、届いた頃には買ったことをもう忘れている…という状態。父がいなくなって、もたれかかれるものがなく、寂しさから私に矛先が向いて…。母は私を振り回したり、困らせたりしたかったのだと思います。私は振り回されることで腹が立ってしまい、このままだと今まで積もった気持ちも含めて、殴ってしまいそうだという考えが頭を渦巻くようになりました。それで、もう関わらないほうがいいと思い、距離を置くことに。最後は心臓発作で亡くなりました。

 

── お母さんが亡くなった今、思うことはありますか?

 

おおたわさん:他人から見たら、もっと上手くやればいいのにと思うかもしれません。でものそのときは、いい関係を築けるとは到底思えませんでした。あのときの選択が正しかったかはわかりませんが、今でも他の方法は思い浮かびません。

 

母が亡くなって数年経ってから母とのことを書いて本にしましたが、文字にすることで過去のことを整理できた気がします。当時は感情がぐちゃぐちゃで整理するもの苦しかったのですが、今となれば本人もなりたくて薬物依存症になったわけではないことがわかります。自分でもどうしようもなかったのだと思います。

 

父の形見のロッキンチェア
父の形見のロッキンチェア

 

PROFILE おおたわ史絵さん

おおたわ・ふみえ。1964年、東京都生まれ。開業医の父と元看護師の母の元に生まれる。東京女子医科大学医学部卒業後、大学病院、救急救命センター、地域開業医として勤務。現在は刑務所で矯正医療に取り組む。著書に『母を捨てるということ』『プリズン・ドクター』などがある。

取材・文/酒井明子 画像提供/おおたわ史絵