令和4年度、児童相談所が対応した児童虐待は約21万9千件と過去最高を記録。そのうち心理的虐待がもっとも多く、全体の約59%を占めます(※)。現在、福祉系大学に通う阿部紫桜さん(仮名)には、身体的・心理的虐待によって小学5年から高校生までの間に計5回、児童相談所に一時保護された経験があります。私たちの想像を絶する出来事に、どんな思いで耐えていたのでしょうか。ご本人にお話を聞きました。

(※)こども家庭庁「令和4年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数(速報値)」より

幼少時代は「ごく普通の幸せな生活だった」

阿部紫桜さん

── 子どもの頃は、どんな家庭環境で過ごされましたか?

 

阿部さん:小学3年の春くらいまでは、福島県でごく普通の生活を送っていました。ただ、母と父の仲があまりよくなく結局、離婚したため、父の代わりに父方の祖父と祖母がよく一緒に過ごしてくれていました。ニンテンドーDSの「ぷよぷよ」シリーズがすごく好きでよく遊んでいましたね。

 

3歳のころの阿部紫桜さん
3歳のころの阿部さん

あと、祖父が家電販売店を営んでいて、私は接客の手伝いをしていました。当時はちょうど地上波テレビがアナログ放送からデジタル放送に移行するときで、祖父も私も自然とテレビの仕組みやアンテナのことがすごく詳しくなっちゃって。私はよくお客さまにアンテナのマシンガントークをしていたそうです(笑)。

東日本大震災後、和歌山へ避難するも親子でいじめられ

── 小学3年の4月に和歌山県へ引っ越されたそうですね。

 

阿部さん:東日本大震災で被災して、避難するために母の実家に引っ越しました。母は本当は福島に残りたかったそうなのですが、祖父から「お前たちに迷惑はかけられない。お願いだから避難してほしい」と頭を下げられて、しかたなく引っ越すことを決めたそうです。

 

── 和歌山県に引っ越してからはいかがでしたか?

 

阿部さん:学校の友達は、最初は仲よくしてくれたのですが…。どうやら福島出身の私が気に入らなかったみたいです。しかも私だけじゃなく、母もいじめられるようになって。結局、和歌山に引っ越してきてから半年後の10月、大阪に引っ越しました。母のパートナーと一緒に住むことになったんです。それがきっかけで生活が一変しました。

生きるための万引きがきっかけで一時保護

── 大阪に引っ越して、生活が一変したというのはどういうことでしょう。

 

阿部さん:義父はしつけが異常に厳しくて、些細なことで叩かれることがすごく多くなりました。食事のときにお茶碗を持って食べないとか、ちゃんと返事をしないとか、自分でもどうして怒られているのかわからないくらい、しょっちゅう怒鳴られて叩かれました。叩かれたら痛いから泣くじゃないですか。泣いたらまた怒られて、叩かれて。その繰り返しでした。

 

同時に、しつけの一環と称してご飯がもらえない日が増えていきました。母は私に食事をさせたかったらしいのですが…。お腹が空いて耐えきれず、小5のとき、初めて万引きをしました。ある意味、自分の命を守るためにやった感覚でした。その後、ご飯がもらえなかった日は万引きをして食べ物を確保するように。ある日、それが店員に見つかったんです。

 

── おつらかったでしょうね…。その後はどうなったのですか?

 

阿部さん:「交番に行こうか」と声をかけられて、交番に行きました。そのとき、私の膝やふくらはぎにたくさんすり傷があったのを警察官が不審に思ったらしく、「この傷はどうしたん?」と何度も聞かれて。転んでできた傷だけでなく、あきらかに叩かれてできた傷についても、私が「こけた」と答えていたので、警察官が虐待を疑って、警察署へ連れて行かれました。

 

5歳のころの阿部紫桜さん
小学5年生のころ

── 警察署に行ったのですね。それはショックな体験だったでしょう。

 

阿部さん:でも、そのときの私は、「警察に行く原因は自分にある」と思っていました。「万引きした自分が悪い」って。ただ、いざ警察署に行くと、刑事の方が取調室に来て、すごく優しい口調で話をしてくれました。「万引きしたらあかんやろ?わかっとったやろ?」って言われて、私は「うん」って答えて。それから、万引きはしなくなりました。

 

事情聴取が終わると、「お父さんとお母さんのところから避難して、別の場所で暮らしてもらうね」と言われて、一時保護されました。そのときは1か月と少し、児童相談所の一時保護所で過ごしました。

過酷な一時保護所…家に戻れば母に首を絞められ、ついに家出を

── 一時保護所のことは覚えていますか?

 

阿部さん:よく覚えています。かなり過酷な環境でした。職員はいつも私たち子どもを見下すような態度だった気がします。虐待だけじゃなく、非行が原因で緊急保護された子どもたちも多かったので、職員たちはそういう子たちに反抗されないように、特に厳しく接していたのだろうなと今は想像できますが…。

 

誰かひとりでも違うことをすると、すごく怒られるんです。私が入所して間もないころにも、誰かがルールを破ったからといって、全員が反省文を書かされたことも。そんな状況のなかで追いつめられて、虐待でつらかったときのフラッシュバックが起きたこともありました。

 

── 一時保護所で1か月過ごした後は、自宅に戻ったのですか?

 

阿部さん:はい。母と義父が「もう叩かない」と児童相談所に話したそうです。でも、家に戻って1週間後にはまた叩かれて、「やっぱりダメだった…」とショックでした。

 

義父がいろいろ理由をつけては私のことを叩く毎日で、母もしょっちゅう泣いていて、つねに家庭崩壊状態でした。母は精神的にものすごく不安定になり、私は首を絞められたり、「殺してやる」と言われたりして…身の危険を感じることもありました。

 

そんな家にいるのが嫌すぎて、小5の冬に家出をしたんです。自分の所持金を全部持って自宅がある地域を離れ、「ここまで来たら見つからないだろう」というところまで逃げて、野宿をすることにしました。そうしたら、通りすがりのおじさんから声をかけられて。「私は大丈夫やから」と言ったのですが、結局その人からの通報で、翌日の早朝に一時保護されました。

小6で人生のどん底を経験「周囲の大人も無関心だった」

── そのあと、何度も一時保護が繰り返されたのですね。

 

阿部さん:2回目の一時保護から2週間後にまた保護されました。保健室の先生が、左目じりにあざがあることに気づいたんです。その3回目の一時保護が解除になったのが小6の7月最終週くらい。その1か月後にはまた保護されました。結局、小学校の卒業ぎりぎりの2月まで7か月間は、一時保護所で過ごしました。

 

── 一時保護から自宅に戻っても、義父の態度は変わらなかったのでしょうか。

 

阿部さん:何度保護されても結局、状況はまったく変わりませんでした。小学校の先生は心配してくれていましたが、それ以外の周囲の大人は、誰も気にかけてくれなかった。母が近所づきあいを嫌がっていたせいで、近所の人とは全然関わりがなかったので、そのせいもあったかもしれませんが。

 

小6のころは、人生の中で一番どん底だったと思います。「家でも一時保護所でも、なぜこんなにひどい仕打ちを受けなあかんの…?」と絶望したし、人間不信にもなりました。

 

PROFILE 阿部紫桜さん

2002年福島県生まれ。小学高学年から児童相談所での一時保護、児童心理治療施設、里親家庭での生活を経験してきた。2023年4月、児童虐待を経験した若者たちの声を集めたドキュメンタリー映画『REALVOICE』にメインキャストとして出演。現在は、福祉系大学に通いながら、一般社団法人Heart resQ理事、IFCA日本メンバーとして子ども虐待防止活動を行っている。

 

取材・文/高梨真紀 写真提供/阿部紫桜