中高時代、部屋に閉じこもる母に代わり、妹の世話や家事や料理までを担っていたお笑いコンビ・平成ノブシコブシの徳井健太さん。「大変でしたね」と話をふると、「困っていなかったし、学校も楽しかった」と意外な答えが。徳井家で何が起きていたのでしょう。(全5回中の1回)

「誕生日を祝われた記憶がない」家にいても楽しくなかった

── 以前はテレビ番組の影響で徳井さんに対して、物静かだけど少し“クレイジー”な芸人さんというイメージを持っていました。最近は、ヤングケアラーについて語る機会も多く、雰囲気も柔和になった気がします。

 

徳井さん:僕が中学生のころに、母親が病気で言動がおかしくなった、料理も家事も全部自分がやっていた、というエピソードは、以前から舞台で話していました。でも、お客さんにはまったくウケなかった、というか、多分ひいてたのかな。芸人って常軌を逸しているほうがおもしろいから。楽屋で話したら、芸人の先輩たちにはすごくウケたんですけど。今から思えば、直接言われたことはないものの、お客さんは「かわいそう」って思ったり、どう反応していいのか、とまどっていたのかもしれません。

 

2022年に『敗北からの芸人論』という本を出版し、「母が統合失調症を患い、中学生のころから家事全般や妹の世話などをすべて担った」と書きました。読んだ人から「ヤングケアラーだったのでは?」と指摘され、調べてみて「そうだったのか」と気づいたんです。

 

── ヤングケアラーという存在がとりあげられるようになったのが、最近ですものね。中学時代、お母さんの変化に気づかれたのは、どのようなきっかけですか?

 

徳井さん:母は、父に全面的に依存した生活を送っていました。父は高卒でしたが、会社から認められ、会社派遣で神戸の大学に進むため、単身赴任したのが発端です。両親ともに北海道の別海町出身で、父の就職を機に千葉に出てきたんです。母は仕事をしたこともなく、親族も友人もいない場所で、21歳で僕を産んで育ててきました。僕が中1のとき、父が会社派遣で大学に行き、帰ってきたら昇進という話で、神戸に行ったんです。突然、家には母と僕と6歳下の妹が残されました。母自身も自覚できないくらい、心にぽっかり穴が開いちゃったんだと思います。

 

ある日、母が団地の部屋の窓の下に隠れて「隣の窓から、誰かが私のことを見てる」って言うので、ふざけてるのかと思って「ほんとだ、見てる!」って、僕ものってしまったんですよ。そうしたら、その日から母が部屋から一歩も出なくなって…。あれが発病の引き金になったんでしょうね。

 

NSC(吉本総合芸能学院)卒業直後、コンビ結成時の平成ノブシコブシ

── それを見て、徳井さんはどう感じましたか?

 

徳井さん:どうもおかしい、と。でも、当時は精神疾患自体がいまのように話題にならなかったし、「気のせいかもしれない、狐にとつりかれるってこういう感じか」と思いました。父親は不在なので、相談もできませんでした。幻覚や幻聴はまだよかったのですが、暴れまくって物を壊しそうなときは困りました。父親に電話したら「さすがにヤバい」と帰ってきました。

 

── 発病はお父さんの単身赴任がきっかけになりましたが、もともとの家族関係はどんな感じだったのですか?

 

徳井さん:わかりやすい亭主関白です。食事どきは父親の前にはたくさん料理が並び、子どもはそこそこの量、母は作りながら食べているのか、よくわからない感じでした。会話もあまりなくて、家にいること自体が楽しくなかったです。だから、家族一緒に過ごして楽しい、と言っている人を理解できませんでした。

 

家族で何かをお祝いする機会がなかったので、「今日は自分の誕生日だ」と嬉しそうに盛り上がっている子を見て、「なんで?」と不思議でした。僕は誕生日を祝ってもらった記憶がなく、めでたいってことがわからなかったんです。大人になって、「そうか、誕生日の人には、おめでとうって言ってあげるもので、そうすると相手が喜ぶんだ」と学びました。とはいっても、小学校に入る前に、家族でディズニーランドやマザー牧場に行った写真が残っているのですが、まったく覚えてないんですよね。

学校に家事や母の介護…つらさも悲しさも感じなかった

── お母さんが部屋に閉じこもってから、料理も家事も6歳離れた妹の世話も…と大変だったと思います。

 

徳井さん:幸運にも、と言っていいのかわかりませんが、母親は掃除以外はあまりできない人でした。だから、母が壊れる前から、僕は家事全般していて、料理もしていました。

 

── 中学1年生で、学業に家事や介護も。しっかりしていたんですね。ふだんどんな1日を過ごしていたんですか?

 

徳井さん:めちゃくちゃ忙しくて記憶にないですが、学校にも行って楽しく過ごしていました。朝5時に起きて部活の朝練に出て、授業を受けて、部活に行って、買い物をして、7時ごろに帰宅して妹と自分のご飯を作る。母はひとりでパンなどを食べていたので…。僕は行きたい高校を目指して、通信教育で夜12時くらいまで勉強していました。

 

── ものすごく大変そうに思えますが、ご自身の感覚では、生活面はそれほど困ったという感じではなかったんですね。いっぽうで、母親が変わっていく姿を見るのは、子どもにとっては耐えがたいことではないかと思います。

 

徳井さん:母が発病したとき、妹は小1でショックを受けたと思います。妹の思い出のなかでは、母は部屋に閉じこもり、たまに暴れているイメージしかないでしょう。僕にはまだ、中1までの母の残像があるからいいほうです。でも、妹を支えなきゃという正義感などは特にありませんでした。僕がこういう話をするうえで、世の中と感覚がズレているなと感じるのは、ここなんです。僕は家族に対して愛がないというか…母も妹も結局は他人、という感覚です。たまたま同居人が精神疾患になったから、介護する。必要だから、料理も家事もする。仕事みたいな感じでした。

 

── そうなんですか?こちらは、「ヤングケアラーは大変」と先入観を持ってしまいますが、徳井さんの場合は「困っている」わけではなかった…。もしかすると、あまりに大変な状況なので、「感情にふたをした」ことも考えられますね。

 

徳井さん:たしかに、そうして耐えていた可能性もありますが、いまとなってはもう真相はわからないです。僕自身の人生はたしかに存在していたし、勉強と部活の合間に料理を作って、妹のいろんな準備をする、ただそれだけ。学校は楽しかったし、自分の状況を恥ずかしいとも思いませんでした。だから、芸人になってから舞台で全部しゃべっているわけです。

専門学校に進学予定も同級生からの思わぬひと言で

── めちゃくちゃ忙しいけど、基本は楽しく過ごしていた、と。そのなかでも、つらかったことは?

 

徳井さん:父が神戸から戻ってきて退職し、両親の生まれ故郷の北海道に戻ることにしましたが、この中3での転校が一番キツかったです。バレーボール部で第二セッターをやっていて、順調にいけば次は正セッターのはずだったのに、ようやく手に入りそうな活躍の機会を逃すのが悔しくてたまりませんでした。しかも、転校先にはバレーボール部がなかったんです。

 

── 両親の故郷、北海道別海町に戻られてからの生活は?

 

徳井さん:父は地元で就職したものの、やはり不在がち。僕が妹の面倒を見て、家事をする生活は変わりませんでした。3か月に1回くらいは母がドーンって爆発して、この病気はもう治らないな、という感じでした。家にいたくないから、唯一学校で許されていたアルバイトの新聞配達を朝夕5年間、続けました。けれど、家にお金を入れたわけじゃなくて、音楽好きだったのでCDの購入に使って、同級生とはバンドも組みました。

 

僕は根本的に、団地や地方の山間部の狭い社会が苦手なんです。だから、引っ越した瞬間から、「イヤだ、ここで一生を終えたくない」「東京に行きたい」って、考え続けていました。

 

── 東京で芸人になるという目標は、いつから?

 

徳井さん:勉強する気が失せて、どうしようかなぁと思っていたんですが、料理するのは好きだったので、東京の料理専門学校に行こうとしてたんです。でも、高校のクラスのお笑い好きの女の子が「徳井君は絶対、お笑いに進んだほうがいい」って、熱心に勧めてくれたんですよ。僕は明るくもないし、目立ちたがり屋でもないのに、なんでだろうって不思議でした。でも、それがきっかけでNSC(吉本総合芸能学院)へ。

 

とにかく、僕の第一目標は「家を出る」こと。芸人になって売れたいわけでも、モテたいわけでも、金持ちになりたいわけでもない。芸人としては、ちょっと変わった入り方かもしれません。結果、嫉妬もしないし、人をほめることにも抵抗はありません。

 

PROFILE 徳井健太さん

1980年生まれ、北海道出身、NSC東京校5期生。 2000年に吉村崇とお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」を結成。 テレビ朝日系『楽しく学ぶ!世界動画ニュース』にレギュラー出演中。芸人や番組を愛情たっぷりに考察することでも注目を集めている。 最近では、幼少期の経験から、「ヤングケアラー」をテーマにした講演会を全国各地で行っている。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/徳井健太、吉本興業株式会社