73歳のファッション系YouTuberとして注目を集めるロコリさん。ユニクロ、しまむら、GUなどのプチフラアイテムをコーディネートした動画が人気ですが、これまでにいろいろな苦労を乗り越えて今があります。(全2回中の1回) 

25歳で起業も10年後には負債が「2000万円」

YouTuberのロコリさん
YouTuberのロコリさん

── 25歳という若さで起業し、ブティックを出店されたそうですね。起業のきっかけは何だったのですか?

 

ロコリさん:当時、地元(北九州市小倉)の古いビルをファッションビルにしようという計画がありました。たまたま、そこに関わる仕事をしていた流れで「自分のブティックを出してみない?」という話をいただいたんです。新しいことを始めようと集まってきた若いオーナーたちに刺激を受けて「好きなファッションのお店が出せるなら」と思ってブティックを始めました。今でいうセレクトショップですね。東京で買いつけしてきたものを店に並べていました。

 

── 経営はどうでしたか?

 

ロコリさん:最初は順調だったんです。事業を拡大したあたりからかな、おかしくなったのは。はじめはビルの3階に店舗を開いたのですが、人通りが少ないということで2階にも新店舗を持つことにしたんです。

 

お店に置く商品はもちろん私の好みで選んでいたのですが、私はカラフルなものが好きなのに、当時のブームはモノトーンの「カラス族」。町中の女の子が黒を来ていたような時代だったのに、色ものにこだわりすぎたんです。

 

そのうち別のビルにDCブランドの店舗がいっぱい入って新しいファッションビルができ、人の流れがガラッと変わっちゃいました。それを見て、儲かっていた店舗はさっさと出て行き、数年後には私の店舗が入っていたファッションビルはガラガラになりました。流行に合わせて売れるものを仕入れておけばよかったと、心の底から思います。当時はこだわりが強すぎました。

 

── そして35歳のとき、2000万円の負債を背負ったと。当時はどんな心境でしたか?

 

ロコリさん:目の前が真っ暗になりました。怖いし、暗いし…人生終わったと思いましたね。在庫や買掛金を抱えてしまい、家賃を払えず、内装費のローンも返済できず、気がついたら負債が2000万円まで膨れあがっていたんです。

「人生は絶対なんとかなる」という一心で借金返済

── その後、アパレルや百貨店の販売員をしながら借金返済をされたそうですね。当時いちばん苦労されたことは何ですか?

 

ロコリさん:借金を返すには働くしかないのですが、体力がないので苦労しました。百貨店ではいわゆる“際物(きわもの)売り場”といって、季節商品やイベント商品を扱う売り場を転々としていました。そういった売り場を担当するとギャラがよかったからです。当時、日給1万円くらいいただけましたし、出勤日数も残業も自由。10日働いて1日休むくらいのペースでたくさん働いていたのですが、とにかく疲れてしまって。結局、寝込んでしまう日もあったのがもったいなかったですね。

 

百貨店に勤務していた当時のYouTuber・ロコリさん
百貨店に勤務していた当時のロコリさん

── 大変な状況の中でも前を向いて進み続けていく原動力は何だったのですか?

 

ロコリさん:「それでも人生は絶対になんとかなる」という思いでした。周囲の友達がみんな前向きで「あなただったら大丈夫」「なんとかなるよ」といつも言ってくれたので、それは嬉しかったです。

 

2000万円の借金は、とにかく必死で、15年から20年くらいでかけて返済しました。最後、30万円を借りていた身近な友達に返せたのが20年後くらいだったと思います。本人はもう返ってこないものだと思っていたみたいですけど。なかには取引先だった会社が倒産してしまって、返す相手がいなくなったところもあり、それは心残りです。

 

── 借金を返済することになってご家族の反応はどうだったのですか?

 

ロコリさん:母は泣いていましたね…。ただ、私の起業での失敗は悪いことばかりではありませんでした。母は、私の借金のことを涙ながらに友達に話をしていたら「カラオケで発散させようよ」と誘われたらしく、よくカラオケに行っていました。そこでの趣味が高じて、なんとあとでカラオケの先生になったんです。母が72歳の時でした。最終的にはカラオケの教室を3つ持ち、大きなカラオケ大会も主催していました。教室は母が85歳で認知症になるまで10年以上続いていましたし、70代からだって何でもできるという見本になってくれましたね。

認知症の母を自宅介護「笑いに変えればいいんだ」

── 72歳でカラオケの先生としてデビューされるのはすごいですね。認知症になってからはロコリさんがお母さんの面倒を見ていらっしゃったのですか? 

 

ロコリさん:そうですね。私自身は借金も返し終わった50代の終わり頃、母が85歳の頃に認知症だと判明し、95歳で亡くなるまで10年間介護生活が続きました。

 

カラオケ講師をしていたロコリさんのお母さん
カラオケ講師をしていたお母さん

亡くなったきっかけは新型コロナです。高熱が出て入院したら肺炎の疑いがあると言われ、検査をしたら「新型コロナ(疑似)」という診断でした。まだコロナがそこまで広まっていない頃で、母は北九州市で6例目のコロナ患者になりました。さいわい私は陰性でしたが、濃厚接触者として2週間自宅待機している間は気が気じゃありませんでした。その後、母も陰性になり、私の自粛期間も明けて病院へ会いに行きましたが、ものすごく痩せて弱ってしまっていて。その2週間後に心不全で亡くなりました。

 

── 介護中はどんなサービスを利用していたのでしょうか?

 

ロコリさん:働きながらの自宅介護だったので、デイサービスを利用していました。施設に入居してもらうことも考えたのですが、空きがあってすぐ入れるような施設はたいてい人里離れた場所にあり、車を持っていない私が気軽に行けるような立地ではありませんでした。また見学に行った施設では、認知症のお年寄りが廊下でわめいているのを目の当たりにして、華やかでおしゃれが好きな母を預けるのはしのびない気持ちにもなりました。

 

できれば近くの特別養護老人ホームがいいなと思って申し込んでいましたが、2年ほど経ってもなかなか順番が回ってこなくて。

 

── 介護と仕事の両立は想像以上に大変そうです…。

 

ロコリさん:子どもの延長保育みたいなイメージで、デイサービスがもう少し遅い時間まで預かってくれればと思ったことはあります。母が自宅に送られてくるまでに仕事を終えて帰るのが難しかったので。もっと認知症が進んでくると母をひとりにしておけない状況になり、仕事を早めにあがらせてもらうようにしていました。

 

症状が進んでからはトイレとお風呂の区別がつかなくなり、そのうち素っ裸になってからトイレに行くようになりました。トイレに行きたくなってから脱ぎ始めるから間に合わず、リビングで排泄してしまい掃除をするというのはしょっちゅうでした。

 

── 介護がつらいとき…どうされていたのですか?

 

ロコリさん:ケアマネージャーの仕事をしている友達がいたので、よく相談に乗ってもらっていました。ストレスがたまると夜の公園でひとり、音楽を聴きながら踊ったり、ヘッドホンをつけてリズムに乗りながらウォーキングしたりしていました。あとは泣くとストレスが発散できるので、好きな曲を聞いて涙を流すこともよくありました。特にマルーン5の『メモリーズ』という曲は歌詞が自分の心情に重なり、聞くだけで涙があふれてしまいます。

 

── 介護のことは、認知症患者の家族のための会報誌にコラムとして寄稿されていたとか。

 

ロコリさん:母の認知症がまだ軽い頃は、北九州市の会報誌に母との出来事を文章で書いていたこともありました。というのも、母とのエピソードを職場の人に話すとよく笑われていたんですね。最初は「こっちは大変なのに」とムカッときたけど、そのうち「笑いに変えればいいんだ」と思えるようになって。深刻になって話を聞かれるよりも、笑いながら聞かれたほうがこっちも重くならずにすむな、ということに気がついたんです。なので、笑い話になるようなものを文章にして会報誌に載せてもらっていました。

 

その経験が生きたのか、いま西日本新聞に連載エッセイを書かせてもらっています。テーマは自由なので、介護のこと、ファッションのこと…いろいろですが、基本的にはクスっと笑えるようなものを書くようにしています。

 

書くこととデジタルは昔から好きで、アメブロが始まって1年後くらいにブログを書いていたこともあります。当時はシニアブロガーなんて、探しても見つかりませんでした。失敗もあったけれど、とにかくやってみるといういろんな経験が、YouTubeや現在の活動につながっていると感じます。

 

PROFILE ロコリさん

ろこり。1951年福岡県生まれ。71歳でYouTubeチャンネルを開設。ユニクロ、しまむら、GUのアイテムを活用したプチプラファッションコーデを紹介し4か月で累計再生数100万回超えの人気シニアYouTuberに。20代で起業して2000万円の負債を抱え、返済後は母の介護に苦労した過去を持つ。2023年3月に著書『72歳、好きな服で心が弾む、ひとり暮らし』(KADOKAWA)を出版。西日本新聞にてエッセイ「空を見上げて」連載中。

 

取材・文/富田夏子 画像提供/ロコリ