億単位の借金返済と2人の娘の子育てに実母の介護も行ってきた安藤和津さん。それでも「自分は家族の犠牲になったわけじゃない」と言いきります。(全4回中の4回)
娘の制服を知らないうちに持ち出して
── 夫の奥田瑛二さんが映画制作に没頭するあまり、一時は億単位の借金をつくったこともあったそうですね。
安藤さん:映画は撮り始めているのに、お金は一銭もない。スタッフのお弁当代も、娘たちの学費すら払えない。あのときは「なすすべがないとはこういうことか」と痛感しました。
当の本人は監督として好きな映画づくりに没頭していて、他のことは目に入らない。信頼していた人にお金を横領されて、借金が億単位に膨らんでも、現実と向き合う余裕もなかったと思います。
だから私が家中のあらゆる金目のものを売り払ったり、知人が紹介してくださった方に融資していただくために土下座をしてお願いしたりしていました。
人生初の土下座でしたけど、あのときは恥ずかしいとはまったく思いませんでしたね。「これで倒産を免れるのであれば」と必死でした。そんなふうに腹をくくる場面が山ほどありました。
── 当時、長女の安藤桃子さんはロンドン大学芸術学部に在籍中、次女の安藤サクラさんは高校生と、学費がかさむ時期だったのでは?
安藤さん:そうなんです。美術を学びたいとロンドンに留学した桃子に、その道の途中で学校を辞めさせることはとてもできませんでした。でも現実問題として払えるお金はない。
本当にどうしようと悩んでいたところ、桃子がみずから大学側に「父が映画監督で資金難で学費を払えない。せめて分割払いにしてもらえないか」と掛け合ったところ、分割払いにしてもらえてなんとかなったこともありました。彼女も相当な覚悟で掛け合ったのでしょう。結果的には次席で卒業できて、本当によかったなと安堵しました。
娘たちも苦労したんです。桃子は、日本に帰国したときはキャリーケースの車輪が壊れても買い替えられなかったので、スーパーのレジ袋に荷物をパンパンに詰め込んで帰ってきたくらい(笑)。
次女のサクラも、学校の制服を夫がイベントに使うからと持ち出して、そのまま行方不明になってしまったんです。制服なんて一着しかなかったらすごく困るじゃないですか?
高校の卒業式は、制服の白線が一人だけ灰色になっていて、胸がチクチク痛みました。その後、引っ越しをするときに事務所の洗濯場の奥に山積みになっている衣装の下から制服を発見しましたが、時すでに遅し…なんてこともありました。
── 並行して認知症を患ったお母さまの介護も大変だったそうですね。
安藤さん:母は脳腫瘍が原因の老人性うつ病と認知症でした。最初は母の言動がおかしくなってしまった原因がわからなかったんです。医師ですらまだ認知症というものを理解していなかった時代で、介護制度のシステムもスタートしたばかり。今のようには整っていなかったし、専門知識やプロ意識が薄いヘルパーさんも少なくありませんでした。
母を指さして「このばあさんがさ~」と目の前で平気で悪口を言われたこともあります。それでも介護福祉士の資格を持っているヘルパーさんと出会い、一生懸命リハビリを続けて、認知症の症状もちょっとだけ改善されて字を書けるようになった矢先、他のヘルパーさんのミスでの転倒がきっかけで寝たきりに。結局、約12年間の介護生活の末に、母は83歳で亡くなりました。
── 約12年間の長い介護の日々はご苦労も多かったはずです。娘としては十二分に尽くされたと思いますが。
安藤さん:いいえ、たりていません。まったくたりていないと思う。1分1秒でも長く生きてほしいと願ったのは私のエゴに過ぎなくて、母本人は寝たきりの会話もできない状態で、あんなに長くは生きたくなかったのかもしれない。健康によくないから、と食べたいものを取り上げずに、食べさせてあげればよかった。そんな後悔がいまだに残っています。
だから娘たちには、私が認知症になっても、「体によくないからダメ」とは絶対に言わないで、好きなものは思いっきり食べさせて。お酒も好きに飲ませてほしいし、外にも遊びに行かせてほしいと頼んでいます。
子育てで守り抜いたこと
── 子育てについても教えてください。長女の桃子さんは映画監督に、次女のサクラさんは俳優にと、皆さんがそれぞれのステージで活躍する芸能一家となりましたが、子育てにおいて大切にしていたことはありますか。
安藤さん:私は仕事で地方出張も多かったため、専業主婦のお母さんと比べたら一緒に過ごせる時間が少なかったと思います。帰宅したらしたで家事もやらなきゃいけない。
だからこそ心がけていたのは、長女と私、次女と私と、それぞれとのふたりきりの時間を必ずつくること。1対1で隣の部屋に入って抱っこして、「今日はどうだった?」「何かおもしろいことはあった?」と、なんでもない会話をして「あなたが一番大好きだよ」とギューッと抱きしめる。
3分とか5分とかの本当に短い時間なのですが、できるだけ毎日、そういう濃密な時間を意識してつくったことはよかったなと思いますね。時間の長さではなく、密度が大切だと思うんです。
地方出張のときは必ずメッセージを書き置きをして、その地方の野の花を摘んできたり、や駅弁をお土産にしたりしていました。どれも豪華なものではまったくありませんが、「お母さんがいない時間」の空白を埋められる何かを必ず用意してあげよう、という気持ちでいました。
── 最近は孫育てにもお忙しそうですが、これから先の人生でどんなことを楽しみたいですか。
安藤さん:私の人生は家族ファーストの人生でした。子育てに約20年、並行して母の介護に12年。その間はずっと自分のために生きられなかったし、娘たちが幼い頃は仕事の大きなチャンスも2回見送りました。
ひとつは朝の帯番組のワイドショーのメインMCのご依頼、もうひとつは出馬要請です。どちらも本当はやってみたかったんです。父が政治家でしたから政治には興味があったし、声を挙げたい気持ちもあったんです。
でも、私がすべてを放り出してその依頼を受けてしまったら、家庭が崩壊することもわかっていたので諦めました。諦めたことを後悔はしていないし、自分が犠牲になったとも思っていません。今、娘たちが仕事で活躍できるのは、私が子育てを頑張った結果でもあると思っているし、そのおかげで人生に楽しみを増やしてもらえましたからね。
それに私もちょっとは成長したんですよ。以前は子どもや孫を前にすると、自分の好物であっても「どうぞ食べて」と譲っていましたが、今は「バァバはこれが好きだから、これはちょうだい!」と孫相手にも言えるようになりました(笑)。
奥田も今は最高のジィジになって、孫たちもジィジが大好き。この数年はお皿洗いも手伝ってくれるし、人生後半やっと人生を共に過ごしてよかったと思えるようになりました。いろいろなことを乗り越えられたのも、全て自分で選んだ人生だからだと思うんです。自分の心に正直に生きるって大事かも。
今の時代の女性たちに伝えたいことは、自分の中で本当に大事にしたいものを見極めることです。それはきっと時代が変わっても普遍的なことですよね。そのうえで、自分に自信を持って楽しく自由に生きられる女性がもっと増えたらいいなと心から願っています。
PROFILE 安藤和津さん
1948年、東京都出身。学習院初等科から高等科、上智大学を経て、イギリスへ2年間留学。CNNのメインキャスターを務める。1979年、俳優・映画監督の奥田瑛二さんと結婚。長女は映画監督の安藤桃子、次女は俳優の安藤サクラ。エッセイスト、コメンテーターなど幅広い分野で活躍中。
取材・文/阿部花恵 写真提供/安藤和津