役者としてのデビュー作が大人気の連続ドラマで、いきなりのベッドシーン。どこか泰然自若で演じたように見える高橋ひとみさん。その影には寺山修司と山田太一というふたりの巨匠の深い愛情があったといいます。(全5回中の2回)

男性とほぼ話したことがないのに「デビュー作は風俗嬢の女子大生役」

── 1983年に放送された『ふぞろいの林檎たち』では、ミステリアスで個性的な少女の役を魅力的に演じ、鮮烈なデビューを飾られました。「風俗でアルバイトをする女子大生」という役どころは、難しくなかったですか?

 

高橋さん: それまで中学・高校と女子高で、男の子ともほとんど口を聞いたことがないような環境でしたから、最初はとまどいがありました。でも、「こういう役柄であって、私じゃないから」と自分に言い聞かせ、「エイヤッ」と無我夢中でやりましたね。

 

ただ、あまりにもわからなさすぎたので、「役づくりのために、一度お店に見に行かせてください!」と、スタッフさんに頼んだことがあったんです。でも、「大丈夫!僕たちが代わりに見てくるから」と言われて、「あら?」と、ちょっと思いました(笑)。

 

撮影は緑山スタジオの個室で行われたのですが、私たちが緊張しないようにと、カメラを天井に備えつけ、監督とカメラマンは部屋の外に出て、中井貴一くんと2人きりにしてくれたんです。

 

「スタジオ内や廊下のモニターもすべて消すから安心してね」と言っていただき、ふたりで「頑張ろうね!」と励まし合って、無事に撮影を終えました。

 

ところが、部屋から出てきたら、廊下に立っていた守衛さんが私の肩をポンと叩いて、「いやあ、よかったよ~」と…。

 

── モニターはすべて切られていたのでは…?

 

高橋さん: それが、消されていなかったんです!私たちが気持ちをつくりやすいようにという配慮だったのですが、「話が違う!」と(笑)。でも、「よかったよ」と、褒めてもらえたので、ホッとしました。

『ふぞろい』のメンバーは最高!いまでも青春時代に戻れる仲

── 共演者の皆さんは、いまでも仲がいいとよく聞きます。

 

高橋さん: 同世代ということもあって、すごく仲よくなって、撮影現場はいつもワイワイと賑やかな雰囲気でしたね。私は女子高だったので、「共学ってきっとこんな感じなのね」と、憧れだった男女共学の気分を味わうことができて、嬉しかったです。

 

毎日ずっと一緒にいたので、まるでクラスメイトのようでした。当時、ひとり暮らしだったさぶちゃん(時任三郎さん)の家にみんなで行って、枕投げをしたりして。

 

髪の毛がぐちゃぐちゃになって、顔もすっぴん。夜通しはしゃいで遊んだあと、そのままスタジオにリハーサルに行くこともありました。

 

40年経ったいまも、仲がよくて、呼び方も当時のまま。みんなすっかり立派になって、「貴一くん」とか、「さぶちゃん」なんて呼ぶと、若い子たちには驚かれますが、いまさら変えるのも変ですしね。いまだにみんなに会うと、青春時代が蘇ったような気持ちになります。

 

── 寺山修司さんの秘蔵っ子と呼ばれる高橋さんですが、『ふぞろいの林檎たち』の出演も、じつは寺山さんの推薦だったそうですね。

 

高橋さん: そうなんです。『ふぞろいの林檎たち』の脚本を書かれた山田太一さんと寺山さんが大学時代の親友で、毎日学校で会っていながら文通をするほど仲のいい文学青年でした。

 

ただ、寺山さんがネフローゼ症候群という病を患ってしまったのもあり、その後は何十年も会っていなかったのだそうです。でも、山田さんが若者の群像劇を書くという話を聞いた寺山さんが、山田さんの家に出向き、私が出演できるように頼んでくれたらしいんですね。

 

寺山さんがお亡くなりになった後、山田さんから、「それまで私がどれだけ『会いに来い!』と言っても一度も来なかったやつが、あなたのためだけに、わざわざ僕を訪ねて来たんだよ」と聞き、とても驚きました。そこから、予定になかった役をわざわざ作ってくださったのだとか。

 

当時、寺山さんは何もおっしゃらなかったので、まったく知りませんでした。その話を聞いて、思わず胸が熱くなりましたね。

 

── 道を切り拓いてくれたのですね。

 

高橋さん: テレビドラマを勧めてくれたのも寺山さんでしたね。「どうして私を舞台に出さないの?」と生意気なことを言ったら、「ひとみは映像に行きなさい」と。理由はなぜだかわかりません。

 

でき上がってきた第1話の台本を見て、「この役は素晴らしいから、これで次に続かなければ、女優をやめなさい」と言われ、稽古もつけてくださいました。

 

18歳のころの高橋さん

リハーサルから戻ったら、「山田になんて言われたの?」と。いただいたアドバイスを伝えたら、「じゃあ、もう1回稽古しよう」と、とことんつき合ってくれました。ですが、その後に病気が悪化し、ドラマの放送を観る前に、亡くなられてしまいました。お別れのときは、その台本を棺に入れてお見送りしました。

いまも忘れられない山田太一さんからの愛ある言葉

── 昨年11月、脚本家の山田太一さんの訃報を受け、「初めていただいた年賀状に、『ご自分を大切に』と書かれていました。つねにこの言葉が私の中にあります」とSNSで追悼されていました。この「ご自分を大切に」という言葉には、どんな思いが込められていたのでしょうか?

 

高橋さん: ご本人に聞いたわけではないので真意はわからないのですが、もしかしたら、「やみくもに仕事を引き受けるのではなく、きちんと選んで、寺山が思い描くような女優になってほしい」ということなのかなと。

 

ただ、当時の所属事務所には私としんごくん(柳沢慎吾さん)しかいなかったので、来た仕事はすべて引き受けるという状況だったんです。

 

きっと、山田さんとしては、せっかくいい役で役者として素晴らしいスタートをきったのだから、「焦らず、じっくり女優として成長してほしい」思いがあったのではないでしょうか。

 

── それだけ期待されていたのでしょうね。「寺山さんから預かった」という気持ちもあったのかもしれません。

 

高橋さん: そうだと嬉しいのですが、果たしてその思いに応えられていたのかどうか…。

 

じつはこの間、引っ越しの片づけをしていたときに、山田さんからいただいた年賀状を見ていたのですが、どうも最初のころと比べると、なんだか年々殴り書きみたいになってきている感じがして、「どうしよう…。もしかして、先生は怒っていらっしゃる…?」と。

 

勝手な憶測で、本当はまったく違うかもしれませんけど(笑)。年賀状はいまでも、大切な宝物として取ってあります。

 

── 時代を代表するようなヒット作に多数出演され、存在感のある演技で活躍しつづけてこられました。

 

高橋さん: 私自身の力というわけではなく、作品や共演者、スタッフの皆さんに恵まれてきた結果だと思います。『私をスキーに連れてって』や『スケバン刑事』も、いまだに「観ていましたよ」と言っていただくことがあって、嬉しいですね。

 

ドラマを観て育った方たちがいまでは作り手になって、一緒にお仕事をさせてもらうことも増えてきました。ですが、私にとって女優の原点は、やっぱり『ふぞろいの林檎たち』ですね。あの出会いがなければ、いまの私はいません。いまだに超えることのできない大切な作品です。

 

PROFILE 高橋ひとみさん

1961年東京都生まれ。1979年、寺山修司演出の舞台『バルトークの青ひげ公の城』で女優デビュー。83年に『ふぞろいの林檎たち』でドラマに初出演。現在まで数多くのドラマや映画、舞台に出演し、近年はバラエティ番組や情報番組などでも活躍している。2015年より、南アフリカ観光親善大使、19年より大田区観光PR特使を務める。現在、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』に出演中。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/ホリプロ