「4年半の在宅介護」と聞けば、大変だったんだろう…。当時のことを回想してくれた杉田かおるさんは大変だけど、楽しい時間を一緒に過ごし、自分とも向き合えたと言います。介護に正面から取り組んだからこその言葉でした。(全5回中の4回)

「施設に入れるのも難しい」在宅で看取った母

── 杉田さんはお母様の介護を自宅でされていたそうです。経緯を教えてください。

 

杉田さん:母が最初に倒れたのは約20年前。私が33歳、母が63歳のときでした。タバコの吸いすぎで肺が悪く、「肺気腫」と診断されました。治らない病気で、このままだと肺がんになると言われたんです。

 

がんにならないためにはどうしたらいいんだろうと調べたところ、「笑って免疫力を上げるのがいい」という内容が目につきました。少しでも母に笑ってもらおうと思ったのが、バラエティに出演した理由のひとつでもあります。

 

看病をしないといけないから、私が先に倒れたら共倒れになってしまいます。そういう思いもあって旅番組のロケに行ったら、その土地で見つけた体によさそうなものを買ってみるなど、健康を意識していました。でも、2013年に母は病気が悪化し、倒れてしまったんです。そこから亡くなるまで4年半、自宅介護をしました。

 

── 施設に入居する選択肢はなかったのでしょうか?

 

杉田さん:最初は不規則な仕事をしながら介護をするのは大変だから、施設に入居してもらうことも考えました。でも、母は24時間の在宅酸素療法が必要でした。

 

血中酸素濃度をつねにチェックして、数値が悪化したらお医者さんにすぐに診てもらわないといけませんでした。介護施設も呼吸器科の先生が常駐していることが条件でした。ところが、当時住んでいた神奈川県中を探しても、そうした介護施設はありませんでした。

 

最初の2年ほどは仕事をセーブして、長いロケのある仕事は入れないようにしながら自宅で介護していたんです。ところがその後、介護制度が変わって自宅で受けられるサービスが受けられなくなってしまいました。そこで、仕事を休止して介護に専念しました。

 

──もともとお母様とは仲がよかったのでしょうか?

 

杉田さん:仲がいいとか悪いという次元の存在ではなかったです。うちはもうずっと母と私、妹の3人で一緒に住んでいて、運命共同体という感じでした。

 

家族というよりもチームのようで、お互いの得意分野で能力を発揮し、力を合わせて生活していました。「3人でひとり」の感覚です。私は「杉田かおる」として表に立っていましたが、その背後では、妹は裏方仕事を全部引き受けてくれていたんです。母は私がどんなに破天荒なことをしてもニコニコして受け止めてくれました。

 

だからといって、情に縛られているわけではなく、心がひとつであれば、あとは全部それぞれの自由に生きていこうという考え方をしていました。ずっと一緒にいたから、母の具合が悪くなったら面倒を見るのは自然の流れでした。

「自分のため、人のために動く」だから在宅介護もつらくない

── 在宅介護は大変なイメージがありますが、いかがでしたか?

 

杉田さん:母は長い間、病気を患っていたのと、もともと明るい人だったから、一般的にイメージされるような「つらい介護」ではありませんでした。呼吸が苦しくないときは、お友達を呼んでワイン会を開催したり、ビールバーに一緒に行ったり、できるだけ楽しんでもらっていました。

 

肺が悪いから空気がきれいな郊外に住み、母が好きな花火がきれいに見えるマンションを住居に選ぶなど、母を中心に生活していました。

 

杉田かおるさんとお母様
どんなに破天荒なことをしても、怒らず受け止めてくれたというお母様と一緒に

介護が始まったからといって急に大きな変化があったわけではなく、時間とともに、ゆっくりと介護の取り組み方が変わっていったように思います。母が過ごしやすい環境をいつも考えて部屋のレイアウトや食事を考えるようにしました。

 

振り返ってみると、旅番組やバラエティに出ていたとき、いろんな企画を考えていたのが介護にも役立ちました。たとえば、部屋のレイアウトを考えるときは、手すりは無機質なものではなく、少しでも可愛いものを探すなど、テレビの小道具さんになっている感覚でした。母に楽しんでもらうために何をしようか考えているときは「いまの私、構成作家みたいだな」と思っていました。

 

── これまでの仕事や経験がすべてつながっているんですね。

 

杉田さん:そうなんです。自宅介護や家事って、お給料がもらえるわけではないです。だから、周囲から評価されていないような気がして悲しくなる場合もあるかもしれません。

 

でも、「ここからここまでは仕事、ここからはプライベート」と明確に切り分けず、「私は24時間、世のため人のため、自分のために動いている、動けている」と思うと、すごく充実するんですよ。長い目で見るとすべての経験は絶対に自分の糧になっています。

 

母はみんなから愛される人でした。スタッフからも人気があって、バラエティ番組では「ぜひお母さんと出演してください」という話もたくさんありました。私は母を楽しませたくて番組に出ていたけれど、実は母が一番面白くて周囲を笑顔にする人でした。

 

そんな母が2018年に亡くなりました。妹も結婚して渡米しています。ずっと一緒だったふたりがそばにいなくなってしまい、いまだに抜け殻みたいな感じです。

服はジャージで料理もしない「介護を通して生活を整えられた」

── 介護経験は杉田さんにとって非常に大きな経験だったんですね。

 

杉田さん:本当にそのとおりです。介護を通し、生まれて初めて一般常識を知った感じです。子どものころから芸能界にいたこともあり、「杉田かおるはお芝居さえできれば、他は何もできなくていい」と自分自身も周囲も思っていたところがあります。

 

だから、本当に当たり前のこと、家事はもちろん、たとえば自分が身に着ける洋服を自分で選んだことさえありませんでした。衣装も役づくりのひとつだから、撮影現場ですぐ着替えられるよう、ふだんはジャージしか着なかったし、そもそも自分がどんな洋服が好みかもわからないくらい世間離れしていたんです。

 

介護は、待っているだけでは何も情報が得られません。だから、どんな介護サービスがあるかを自分で調べる必要がありました。介護や医療に関わる法律はどんどん変わるから、そのたびに勉強することもあって…。「芸能人だからって特別扱いしませんよ」と担当者に直接言われることもありました。

 

これまで何もできなかった私が、介護や法律について学び、母の健康のために料理を始め、ようやく一人前の大人になれた気がします。介護がなかったら、いつまでも世間知らずのままだったかもしれません。本当に多くのことを学ばせてもらいました。

 

PROFILE 杉田かおるさん

すぎた・かおる。1964年東京生まれ。俳優、タレント。7歳で「パパと呼ばないで」に出演し子役としてデビュー。79年TBSドラマ「3年B組金八先生」に妊娠する中学生を演じ話題に。バラエティー番組にも多く出演。2009年に10キロのダイエットに成功。美容、健康やオーガニック、農業などにも関心を深める。2013年から母の介護に取り組む。2018年、俳優としての活動を再開。

 

取材・文/齋田多恵 写真提供/杉田かおる