デーブ・スペクターさんと結婚後、日本を拠点に夫のアシスタント業務に徹していた京子スペクターさん。来日後、自分たちの会社を立ち上げました。どのような思いで起業したのか、当時の思いと経緯について伺いました。(全4回中の3回)

芸能プロダクションに所属するも「自分たちでやろう」と決意

スタジオALTAにて。日本で仕事を始めた頃のデーブさん
スタジオALTAにて。日本で仕事を始めた頃のデーブさん

── 1988年には、株式会社スペクター・コミュニケーションズを設立し、経営者として歩み始めました。会社を設立した経緯について教えてください。

 

京子さん:夫の「仕事のしやすさ」から、会社を立ち上げることに決めました。日本に拠点を移して以降、デーブは日本とアメリカの仕事を2本軸で行っていましたが、タモリさんがMCを務める『笑っていいとも!』への出演をきっかけに、他のテレビ出演の仕事が急増。

 

「コメンテーター」としての依頼が入るようになり、1985年頃から、芸能プロダクションに所属していました。その頃も、夫はABCテレビの仕事を継続していたので、私がサポート役として手伝っていましたが、次第に「自分たちでマネジメントしたほうが、お金の流れもきちんと見えるし、アメリカの仕事もしやすいのでは」という考えになり、1988年にスペクター・コミュニケーションズを立ち上げました。


── 会社設立時、どのような思いでしたか? 

 

京子さん:「夫の望むことを実現させたい」という思いでした。とにかく勉強熱心な人で、出演する番組に関しては、MCやゲストのことを念入りに調べ、「わからない」をゼロにした状態で臨んでいました。

 

たとえば、『笑っていいとも』に出演した時は、タモリさんの生い立ちから過去の出演番組などを、まんべんなく調べていました。日本語の勉強も継続しており、睡眠時間を削ってでも努力を惜しみません。そんな夫を「支えたい、手伝いたい」という思いで立ち上げたのが今の会社です。

 

── デーブさんのたゆまぬ努力と京子さんの支えが、現在の地位を築いているのですね。

 

京子さん:以前、夫に「そこまで調べなくてもいいのでは?」と言ったことがありました。緻密に下調べをしても、MCさんに振られなかったら無駄になってしまうこともあるからです。

 

しかし彼は、「いつかどこかで使える知識になるはずだから」と頑なでした。今も昔も「視聴者に情報をきちんと提供する」という姿勢は変わらず貫いていて、その誠実さこそが、テレビ業界で今も生き残れている理由なのかもしれません。

 

結婚記念日のディナーにて
結婚記念日のディナーにて

心がくじけそうになった時も「目標」を掲げて歩み続けた 

── これまでの歩みの中で、「アメリカに戻る」という選択はなかったのでしょうか。

 

京子さん:昔、「アメリカに帰る」と夫から切り出されたことがありました。1980年代後半に出演した討論番組内で、政治絡みのテーマで発言したところ、「アメリカに帰れ」と言われてしまったことがきっかけだったと記憶しています。どんなに日本に詳しくても、討論番組では「アメリカ代表」として強い意見をぶつけられることも少なくなく、心が折れてしまったのだと思います。

 

── その時、京子さんはどのように対応したのですか?

 

京子さん:「ここで本当に帰ってしまったら、これまでの努力が無駄になってしまう」と諭しました。当時、『徹子の部屋』への出演も私たちの目標だったので、「『徹子の部屋』に出たら考えよう」と目標を定め、努力を続けました。その後、2014年に出演が叶った後は、「次の目標」を掲げながら歩み続けてきました。

 

東京国際映画祭にて。苦しい時期も、寄り添い、支え合った
東京国際映画祭にて。苦しい時期も、寄り添い、支え合った

各国大使からの招待に夫の代理で出席「フォーマルな英語を学んでおいてよかった」

── 現在は、在日の各大使との交流も活発ですが、どのように人脈を広げていったのですか?

 

京子さん:以前、夫が連載していた『週刊文春』のコラム記事がきっかけとなり、各国の大使から招待を受けるようになりました。イラン・イラク戦争をテーマに、イラン大使にインタビューした記事でしたが、その内容が核心をついていたことから反響を呼び、「ぜひお会いしたい」とクウェート大使に招待され、その後、他の大使からも声がかかるように。

 

しかし夫は、「勉強の時間が減ってしまうから」と招待をお断りしてしまったのです。「せっかくの招待なのにもったいない」と、私が代理で出席するようになり、人脈が広がっていきました。

 

ブルネイ・ダルサラーム国大使館にて。各国大使との交流も活発
ブルネイ・ダルサラーム国大使館にて。各国大使との交流も活発

── 語学力やアメリカでの経験が生かされましたね。

 

京子さん:そうですね。フォーマルなシーンでの英語表現なども、きちんとできるようになっておいてよかったと感じています。また、テーブルマナーやダンスもアメリカでの生活から学んだことでした。特にダンスは、留学時代のダンスパーティーで学んだものです。週に1度、学校で催されていたダンスパーティーで、ワルツなどの社交ダンスが自然に身につきました。現在も大使館パーティーなどで踊る機会があり、アメリカでの経験が今につながっているなと感じています。

 

PROFILE 京子スペクターさん

(株)スペクター・コミュニケーションズ代表取締役。千葉県千葉市出身。高校卒業後、ハワイとアメリカに留学し、語学を学ぶ。1977年よりロサンゼルスのホテルニューオータニに勤務。コンシェルジュとして働くなかで、デーブ・スペクターと出会う。結婚後、日本に帰国し(株)スペクター・コミュニケーションズを設立。テレビの企画やプロデュースを手掛けるほか、アメリカでの生活を生かして、ライフスタイルコーディネーターとしても活躍する。現在アルバニア共和国名誉領事を務める。2023年より始めたInstagramが(@kyoko_spector)が好評。

取材・文/佐藤有香 画像提供/京子スペクター