TV番組プロデューサーやコメンテーターなど、マルチに活躍するデーブ・スペクターさんを、妻として、事務所社長として支える京子スペクターさん。1970年代、まだ海外で働く日本人女性が少なかった時代にどのようにキャリアを積んでいったのでしょう。(全4回中の1回)

日本と海外を行き来する父の姿に憧れて

ユタ州の都市、ソルトレイクにて。現地の学校で2年間語学を学んだ
ユタ州の都市、ソルトレイクにて。現地の学校で2年間語学を学んだ

── 幼い頃から海外への憧れを抱いていたそうですね。何がきっかけだったのでしょうか。

 

京子さん:私の父は商社に勤めており、中国や東南アジアへのたびたび出張していました。英語を使って海外で活躍する父の姿を見て育った私は、幼い頃から海外への憧れを強く持っていました。

 

小学校高学年くらいになると、「フライトアテンダントになるかホテルで働きたい」と考えるように。語学への興味もあり、中学生の頃にはペンパル(文通友達)を作り、定期的に英語で手紙をやりとりするようになりました。とはいえ、当時はまだ英語がほとんどわからず、本や辞書で「いい天気ですね」などのフレーズを調べ、一生懸命書いていたことを記憶しています。

 

高校生になると、近所で無料の英会話教室が開催されることを知り、週1で参加するようになりました。その教室は、あるキリスト教の宣教師の方が主宰していたのですが、当時、リアルな英語を聞ける機会がほとんどなかったため、新鮮な気持ちで通っていました。

 

── 子どもの頃から、英語への学習意欲を高く持っていたのですね。

 

京子さん:そうですね。高校卒業後も「語学を身につけたい」という思いで「留学したい」と親に相談しました。しかし、母親からは反対されてしまって…。3人きょうだいのひとり娘ということもあり、心配だったのだと思います。

 

父が応援してくれたおかげで、ハワイのブリガム・ヤング大学に通えることになりましたが、しばらく経つと、「ここではネイティブな発音が学べないかもしれない」と感じるように。ハワイは、さまざまな国から移住してきた人が多いため、ネイティブとは異なる発音やイントネーションで話す人が多かったのです。

 

そこで、アメリカ・ユタ州にあるレターデーセイントビジネスカレッジに入学し、語学を学び直すことにしました。寮に入ったおかげで友達はすぐにできましたが、勉強についていくのが大変でした。

 

それでも1年ほど経つと、友人との会話を英語でスムーズにできるようになったため、父に電話をして「英語はできるようになったから、そろそろ日本に帰ろうかな」と話しました。

 

私費留学だったため、親に金銭面の負担をかけていたことを申し訳なく思っていましたし、ホームシックになっていたというのも正直なところです。しかし、父からの返答は「卒業するまで帰ってくるな」という厳しいものでした。

 

ルームメイトの友人と。アメリカ在学中は寮で生活していた
ルームメイトの友人と。アメリカ在学中は寮で生活していた

── その後も、アメリカの学校に通い続けたのですね。

 

京子さん:そうです。この時の父の言葉のおかげで意識を改め、卒業まで通いました。おかげでフォーマルなシーンでの英会話や振る舞いも会得することができたと感じています。

 

結局、最初の1年ほどで「話せる」と思っていたのは、学生どうしのカジュアルな会話だけ。現在、大使館のパーティーなどで海外の方とお話しする機会が多いのですが、あの時にビジネスカレッジを卒業しないで帰国していたら、今のようには話せていないと思います。きちんと英語を体得していてよかったと感じています。

卒業後に帰国するも日本に違和感「アメリカに帰りたい」

── 留学後は日本に帰国されたのですか?

 

京子さん:卒業した後は、日本に戻って約2年間働きました。しかし、日本ならではの礼儀作法や縦社会の文化に馴染めず、居心地が悪く感じて、ずっと「アメリカに帰りたい」と考えていました。

 

ハワイの留学中にできた友人に相談したところ、当時、彼女はロサンゼルスのホテルニューオータニに勤務していて、「うちのホテルで働くのはどう?」と提案してくれて。知人の紹介ということで、同じホテルで働けることが決まったのです。

 

LAのホテルニューオータニでコンシェルジュとして勤務
LAのホテルニューオータニでコンシェルジュとして勤務

── 海外で働くことの大変さはありましたか?

 

京子さん:「大変さ」よりも「楽しさ」のほうが上回っていました。私はコンシェルジュとして働いていましたが、ゲストからのさまざまな質問に、英語で対応できることが嬉しくて。

 

とはいえ、コンシェルジュはホテルのことはもちろん、近隣の施設情報も熟知していなければいけません。友人に車で周辺を巡ってもらい、空港や駅などの道順を覚えたりする努力も惜しみませんでした。

 

約4年間勤務しましたが、毎日投げかけられる質問は人それぞれ。それに対応するなかで英語力もかなり上達したと感じています。

 

当時の私の勤務時間は15〜23時。朝は11時頃に起きてゆっくりと支度し、勤務後は友人と夜遅くまでオープンしているハンバーガーショップに出かけるなど、充実した日々を過ごしました。

 

京子スペクターさん
京子スペクターさん

 

PROFILE 京子スペクターさん

(株)スペクター・コミュニケーションズ代表取締役。千葉県千葉市出身。高校卒業後、ハワイとアメリカに留学し、語学を学ぶ。1977年よりロサンゼルスのホテルニューオータニに勤務。コンシェルジュとして働くなかで、デーブ・スペクターと出会う。結婚後、日本に帰国し(株)スペクター・コミュニケーションズを設立。テレビの企画やプロデュースを手掛けるほか、アメリカでの生活を生かして、ライフスタイルコーディネーターとしても活躍する。現在アルバニア共和国名誉領事を務める。2023年より始めたInstagramが(@kyoko_spector)が好評。

取材・文/佐藤有香 画像提供/京子スペクター