小学生で演歌の道に憧れ、19歳で華々しいデビューを果たした坂本冬美さん。順調すぎるほどの経歴ですが、当の本人はいろいろな思いを抱えていたそう。子ども時代からデビュー前後までの思い出を振り返っていただきました。

おじいちゃんには褒められたけど…のど自慢番組では残念賞

2〜3歳頃の坂本さん。どことなく面影があります

── 演歌歌手を志したのは小学生の頃だったそうですね。きっかけはなんだったのでしょう?

 

坂本さん:もともと祖父が歌好きで、物心ついたころからおじいちゃんの歌を聴いて育ちました。最初に覚えた歌は『リンゴの唄』という戦後まもない当時の歌ですね。小学1年生くらいのときに地元のお祭りで初めて生演奏で歌ったのが、森昌子さんの『おかあさん』や『せんせい』。おじいちゃんが、「この子は歌がうまいから、将来は歌手だね!」なんてご近所の人に自慢したりして。

 

「歌手になりたい」と意識するようになったのは、小学校5年生の頃です。テレビ番組で、石川さゆりさんの『津軽海峡・冬景色』を聞いて、しっとりとした演歌の世界に魅了されたのがきっかけでした。それからは、地元の夏祭りのカラオケ大会などに出たりしていましたね。

 

10歳の頃の坂本冬美さん
「歌手になりたい」と意識し始めた10歳の頃

── やはり子どものころから歌がうまかったのですね。

 

坂本さん:そこまでではなかったと思います。中学生の頃、関西の番組で西川きよし師匠が司会をしていらした「素人名人会」に出場したことがあるのですが、合格の鐘は鳴らず、残念賞といったところ。審査員の先生には、「あんたは変わった声をしているねえ」とただそれだけ。

 

「なんだ、田舎でおじいちゃんがうまいと言ってくれたけれど、その程度かあ。やっぱり歌手になるなんて無理なのかな…」とガッカリしたことも。当時、日曜日にやっていた『スター誕生』の番組にハガキを出したこともありました。返事は来ませんでしたけど。

梅干し会社への就職が「歌手の夢が叶う意外なきっかけ」に

── そうなのですね。てっきり「コンテスト荒らし」のような存在だったのかと。

 

坂本さん:いえいえ、全然!歌がうまい方はたくさんいらっしゃいましたから。

 

高校生になってからは、カラオケの機材を買うために、和歌山県白浜町にあるアドベンチャーワールドのレストランでウエイトレスのアルバイトをしながら歌手への憧れを募らせていました。でも、田舎だし、どうすれば歌手になれるのかわからなかったので、卒業後は就職して働きながら歌手を目指すことにしたんです。当時は、和歌山の田舎から東京に上京するだなんて、海外に行くくらいの感覚。ものすごく遠い道のりに思えましたね。

 

── そこからどんなふうにしてデビューの切符を掴まれたのでしょう?

 

坂本さん:勤めていた梅干し会社の近所に、趣味でカラオケ同好会を開いている中尾さんというお宅があったんです。「いつでも歌いに来ていいよ」と言ってくださったので、毎日昼休みに40分ぐらい練習させてもらっていたのですが、中尾さんが毎回私の歌をカセットテープに録音し、雑誌やコンテストに送ってくれていたんですね。

 

そのひとつが、デビューのきっかけとなったNHK『勝ち抜き歌謡天国』でした。86年に和歌山大会で優勝し、作曲家の故・猪俣公章先生と出会い、8か月の内弟子時代を経てデビューすることができました。

 

高校1年の頃の坂本冬美さん
カラオケ大会に積極的に出場していた高校1年の頃。この4年後には念願叶って歌手デビューを果たす

── カラオケ同好会の中尾さんが、歌手になるきっかけをくれた恩人というわけですね。

 

坂本さん:今でも地元でのコンサートには必ず駆けつけてくださいます。30周年のときは東京にご招待しました。変わらず応援してくださっていて嬉しいですね。

デビュー曲に正直ガッカリした理由

── 1987年、19歳のときに『あばれ太鼓』でデビューし、80万枚を超える大ヒット。ただ、当のご本人は、デビュー曲があまり気に入っていなかったとか。

 

坂本さん:もともと『津軽海峡冬景色』の石川さゆりさんに憧れて歌手を目指したので、本音をいえば、しっとりとした女性らしい雰囲気の曲でデビューしたかったんです。

 

当初、候補が8曲あったのですが、その中にはしっとりした感じの歌もあって、「この曲になればいいな…」と密かに願っていたのですが、一番苦手だと思っていた『あばれ太鼓』に決定。せめて私の気持ちだけは伝えたいと思って、猪俣先生に、「この曲は流行らないと思います」と言ったら、案の定、怒られました(笑)。

 

── なるほど、そんな事情が(笑)。確かに、「あばれ」や「太鼓」といった言葉は、しっとりした雰囲気とは真逆ですもんね。

 

坂本さん:ただ、結果的に曲がヒットしたおかげで道が拓かれたわけですから、感謝をしています。ちょうど、都はるみさんや森昌子さんといった大御所の方々が引退され、その隙間に、なにやら勢いのある女の子がポッと出てきた、という感じでタイミングもよかったのかもしれません。

異常な忙しさにすり減っていく日々も

── デビュー後は、曲が次々とヒットし、一気にスター街道を駆け上がりました。環境も激変したのでは?

 

坂本さん:ほんの1年前まで、猪俣先生の内弟子として運転手をして、どこかで「演歌歌手というものは“苦節何年”という日々が続くのだろうな」と覚悟していました。だから、まさかデビュー曲から賞レースに参加でき、2年目には紅白に出場し、3年目にはコンサートで全国を回るようになって、5年目には劇場公演をやらせていただけるようになるなんて考えもしませんでしたね。

 

── ものすごいスケジュールですね…。

 

坂本さん:すごく恵まれていたと思います。ただ、あまりにも忙しすぎて、何が何だかわからないという感じでしたね。立ち止まったり、振り返る余裕もなく、ひとつ終わったら、ハイ、次!と、ひたすら目の前にあるお仕事をこなすのに精いっぱいで、目まぐるしい日々が続きました。

 

結果的にみれば、それが少しずつ積み重なって今に至っているのでしょうけれど、当時は、やるべきことをクリアするのに必死。言葉は悪いのですが、いただいたお仕事をただ消化しているような感じで、自分がすり減っていく感覚もありましたね。

 

── 演歌界で20代前半といえば、かなり若手ですよね。プレッシャーも大きかったのでしょうか。

 

坂本さん:プレッシャーを感じる余裕すらなかったというのが、正直なところですね。まだ若かったですし、とにかく毎日必死だったので、周りもよく見えていなかったと思います。

 

でも、先輩方はすごく親切でしたね。私は、もともとこんな感じで、ふてぶてしいタイプですし(笑)、お世辞を言ったり、媚びを売るわけでもない。ですから、きっと生意気だっただろうなと思うのですが、皆さんとてもやさしく接してくださいました。

 

島倉千代子先輩にしても、雲の上の存在なのに、いつも私を気にかけて温かい言葉をかけてくださって。きっと大御所の先輩方は、目まぐるしいほど忙しく日々を経験をしてきているから、「この子も今、必死に頑張ってるのね」と温かく見守ってくださっていたのでしょうね。

 

PROFILE 坂本冬美さん

さかもと・ふゆみ。1967年生まれ。和歌山県出身。1987年、19歳のときに「あばれ太鼓」でデビュー。『祝い酒』『夜桜お七』『また君に恋してる』など、数々のヒット曲を持つ。91年には細野晴臣、忌野清志郎とHISを結成するなど、ジャンルを超えて活動。2024年2月に「ほろ酔い満月」をリリース。

 

取材・文/西尾英子 写真提供/坂本冬美